知らないということ。

2週間の休暇が終わってしまいました。今回は生まれて初めてバックパッキングを体験しました。私はたぶん日本人の平均よりは海外には多くいっている方だと思うのですが、それはあくまで仕事での話。仕事中では目的地も決まっていますし、航空券やホテルも依頼主によって確保されています。そんな中、私の考古学者の友人の中には若いころ沢山バックパッキングをしている人も少なくなく、ひっそり彼らにあこがれていました。

今回ヨーロッパでの仕事が一つ延期になり、ぽっかり2週間スケジュールに穴が開いたので、これはチャンスと思い初のバックパッキングを行ってきました。

最初のチェコとその隣のポーランドは友人のマテに付いてきてもらいました。貧乏旅行超上級者の彼に貧乏旅行のイロハを教わりました。その後はウクライナのリヴィウで友人先輩研究者のタラスさん一家に居候させていただき、その後、首都キエフ経由でモルドバ共和国に一人旅をしてきました。

そんな2週間のなかで感じたことをここで書かせていただきます。

今回はいろんな場所で歴史的建造物や宗教施設(教会など)、そして博物館を訪ねました。

しかし一番印象に残ったのは友人二人のある言葉です。ひとつ目はポーランドでマテと別れるとき、彼はウクライナとモルドバ(旧ソ連)に行きたいという私のことをとても心配してくれました。特にモルドバは彼にとっても全く知らない場所で、モルドバは東ヨーロッパで最も貧しい国だから、こういう場所にはいくな、こういう人には気を付けるんだぞとレクシャーしてくれました。しかしながら私が実際にモルドバを訪れて見たものは拍子抜けするほど普通の安全な街。観光客が少ないだけで発展していました。日本の地方都市とほぼ同じ様子です。

もう一人の言葉はウクライナでタラスのお母さんと話したときに、私が今回はクロアチアから来たといったら、あそこは20年前まで悲惨な内戦(旧ユーゴスラビア)があった。そんなところで働いて大丈夫なのかと心配してくれました。私はクロアチアをはじめ旧ユーゴスラビアの国々が今はとても平和だということを知っていたのでとても奇妙に思いつつも「クロアチアは安全でとても綺麗なところですよ。」と伝えました。

このマテとタラスのお母さんの言葉が今回の旅の中で一番印象に残った出来事でした。二人ともかなり博学な人たちです。ですが「知らない土地やそこにくらす人々」について「怖い場所」という印象と漠然ともっていました。これは私にも言えます。アフリカの奥地や中東の国に対して、そこに一人で行くのは少し怖いです。これは私がその土地や文化を「知らないから」。実際には人々は豊かに生活していて、安全なところなのでしょう。だからこそ多くの人々がその国々で生活しているのです。(難民の多い国は別だと思いますが。)

2人の言葉がどこか気になりながらも今回は「旧共産主義圏の国」、「旧ナチス・ドイツの支配下の国」、「旧ソビエト連邦の国」を回り、歴史と文化を理解しようといろいろな人と話したり歴史博物館を訪ねてきました。そこで見てきたのは第二次大戦中に起こったホロコースト、冷戦時の混乱、旧共産圏の貧困、そして現在にも続く東西の対立でした。なぜこれらの出来事は起こったのか?

そして気付いたのは、これらの紛争や混乱の根底には「知らない」からこそ起こる「不安」さや「怖さ」があったのだということ。それがまとまって大衆レベルまで広がり、収束のできない戦争や紛争にまで広がっていったのだと感じました。

こんなことを思い出しました。10年ほど前、アメリカの語学学校で大学院入学のために勉強していたころ、休みに日本に一時帰国し、古くからの友人と飲んでいました。するとその友人が「韓国人はずるい民族だから騙されないよう気を付けなよ。」といいました。悪気はないのでしょうが、私には今でも仲良くしている韓国人の友人がたくさんいるのでとても傷つきました。なんの情報(根拠)でそんなこと言うのかを聞いてみたところ、ニュースや本で勉強しているからだとのこと。もちろん日本語で書かれた、嫌韓のための情報なのでしょうが、それは果たして「知っている」ということになるのでしょうか?

私には韓国人の友人がたくさんいますし、彼らはとても優しく親切です。さらに大学院の時に建築学科の授業を取っていた時に、専門外の授業に四苦八苦していた時に手取り足取りいろいろ助けてくれたのは中国人のクラスメートたちでした。彼らは私が日本人だからとか関係なく、困っているクラスメートという根本的な理由でいつも助けてくれました。今でもよい友人たちです。

そういえば、こんなこともありました。語学学校でクラスメートだった韓国人の女性(50代ぐらい。旦那さんが大学院に研究に来ていて、ご家族で留学していました。)が学期の終わりぐらいにふと「日本人はずるい人たちだけど、あなたは違うみたいね」といってきました。話を聞くと彼女の日本人の友人は私だけ(今まで話したことがある日本人も私だけといっていました)で、それまでは韓国国内のニュースやインターネットを見て日本人を知って来たのだと。

あぁ、「どこも一緒なんだ」と感じました。どこでも「実際」を「知らない」から、そのため「不安」になったり、偏った情報を鵜呑みにする。そして理解していると思い込む。これは負の方向に行きやすいのです。(また利用されやすいともいえます。)

ナチス・ドイツのユダヤ人に対する迫害のきっかけと同じです。それが扇動されホロコーストにつながりました。アメリカや欧州、そして日本の近年の状況を見る、どの様にホロコーストが起こったのか十分理解できるきがします。大虐殺や戦争は過去だから起こったのではなく、いつの時代にも、これからも起こりえるのだと思い知らされます。

よく多くの人たちが、これらの問題に対して、人間関係の基本として「相手のことを考えろ、相手の立場になれ」といいますけど、これは実際には難しいことです。よっぽど賢い人か想像力の豊かな人じゃないと「知る」という工程なしに相手の立場には完全にはなれないと思います。

「知らない」相手の気持ちや立場を理解するのは難しいですよね。

まずは少しでも「知ってみる」ということが大事なんじゃないでしょうか。そしたら理解できるようになる。そして「容認」できるようになるのだと思います。まず相手を理解する前に、相手に対する「不安」を取り除く作業を行うのが必要なんだとおもいます。

しかしながら「自分の知っている範囲」のことをいくら勉強してもそれは「知る」ということとはあまり繋がらない気がします。

私があまり好きじゃない人たちで「いい学校を出ているから」「高い学位」を持っているからと、自分が賢い人間だと勘違いしている人たちを見かけます。(正直なところ学問研究の世界にはこのような人たちが山ほどいます。)しかし現実を見れば、例えば私の専門にしている考古学。これが一体、日常生活の上でどれほど役に立つのでしょうか?車やエアコンの修理の仕方や美味しい料理を作れた方がよっぽど役に立ちますよね。

テレビでよく見る専門家やコメンテーターの方たちもたくさんの知識を詰め込んでいて、なんか相手を見下しています。彼らは自分の考えだけを敷き詰め、未知の分野(または相手側)のことを全く初めから新たに知る努力はしていない感じがします。

つまり学問に限らず、政治や国際情勢のニュースの話でも、簡単な対人関係(友人関係)でも自分の知っている地域の話や、自分側の主張に沿った知識をいくら勉強したところで、それはあまり「知る」ことにはつながらないと思います。大事なのは「自分の心地よい範囲から出ること」ではないでしょうか。

今回の2週間で私は行ったことのない知らない場所に行くことで、今まで知らなかった文化や歴史について知ることが出来ました。「全く知らない場所に行く」これは人によってはとても勇気のいることなのだと思います。例えば世界情勢について情報を得るときも、自分側の情報だけでなく、同様に客観的に相手側、また第三の情報を得ることにより、より「知る」ことにつながり、相手を容認できるようになるのではないでしょうか。友人関係にしたとしても、まずは相手の経験したことを体験することによって、もしくは自分の意見をぶつけるのではなく相手の話を一から最後までまず聞くことによって、すこしは相手の言動の根拠を理解し、許容できるようになるのではないでしょうか。しかしこれは今までの自分の知識や立場、さらには自分の人格を否定しかねないので勇気がいります。

また、このことについて私は「旅をするのがいいことだ。」といっているわけではありません。私はたまたま仕事の都合で既に海外にいることが多いので、容易に安くその現地から足を延ばすことができますし、ある程度英語も話せるので見知らぬ土地行くのにそこまで苦労しません。それに考古学者は大まかにいうと文化人類学者に分類されるので(昔の人々の暮らしや文化を遺跡や遺物から考察する学問が考古学です)、人々の文化や歴史に興味があります。つまりいろいろなことを現地で考察するのはちょっとした専門分野なのです。

ここで私が別に「旅行や旅を勧めているわけではない。」というのは、つまり、「自分の心地よい範囲からでる」ということが重要であって、物理的に「知らないと土地に行きなさい」というわけではないからです。全く新しいことであれば何でもいいとおもいます。

例えば、今まで興味のなかった本を読んでみる。全く新しい趣味をやってみる。新しい音楽や演劇のジャンルを聴いたり観たりする。今までいなかった(苦手だった)タイプの友達を作ってみる。などのことを言いたいのです。

知らなかったこと、触れずらかったものにあえて触れてみることにより、今までと違った知識や経験をでき、その分野にいる人や自分の知らないことをやっている人に対し少しづつ理解ができるようになります。そしてその人やその分野に対する、知らないがために起こる「不安」や「恐怖」が和らぎ、容認できるようになるのだと思います。それを続けることにより少しづつ「理解できる範囲」が広がり、「不安」や「恐怖」からうまれる負の感情が和らいでいくのではないでしょうか。

だからといって私は世の中を悪い場所といったり、現状を悲観しているわけではありません。逆に私は世の中に対して多少「楽観視」をしています。中世や近世では魔女狩りや公開処刑が公衆の面前で当然と行われていました。20世紀前半には大虐殺や人体実験も行われていたのです。しかし段々と民主主義の広がり、人種差別の撤廃や女性の選挙権獲得。最近では同性愛者の結婚の権利や動物愛護運動などがひろまってきました。これらは何世紀か前ではは考えられない状況です。私たちが人類として進んでいる状況は決して悪くないのです。ただいたるところに「ヘイト」や「紛争の火種」があり、完ぺきでもありません。

私はただの昔の船の構造を研究しているだけの能のない人間です。ですが仕事でいろいろな文化を勉強し地元の人々と触れ合っていく中で、いろいろなことを「知っていく」ことにより「不安」や「恐怖」が薄れ、よりいろいろなことを容認できるようになることがわかってきました。これは個人レベルだけではなく、社会としてのレベルでも「優しく容認できる風潮」になれるのではないかとおもっています。

「自分の心地よい範囲を越えて」新しいことを知ってみる大事さ。それがこの2週間いろいろな場所で歴史や文化に触れあった中で改めて考えていたことでした。

偉そうで大変申し訳ないのですが、このブログを読んでくださった皆さんも是非、「自分の心地よいと感じる範疇」から少し出て新しいことをしてみてください。

「これを理解しよう」などと特に難しく考えずにいいと思います。

単純に新しい「楽しみ」を「今まで知らなかった分野」のなかに見つけられると嬉しいですよね。

1 thought on “知らないということ。

  1. 私も同じ事を言われた事があります。
    私の職場では、海外旅行の際、会社の許可が必要なため、今年の夏に上司に許可書を申請したところ、「クロアチアって危なくないの?」と言われました。
    私が、実際クロアチアを旅行した感想は、物価が安くて、ご飯美味しくて、人が親切だったこと。

    20代までは、私も好奇心旺盛でバックパッカーでいろんな国をウロウロしてました。ユースホステルに泊まり、そこで出会った他国の人達とおしゃべりするのが楽しかったです。ただ、だんだん年と共に自分にとって心地いいものがわかるようになり、いつの間にか心地いいものばかりを好むようになりました。

    山舩さんとは、ちょっと考え方が違うかも知れませんが、カナダで語学学校に通っていたときに私が学んだのは、相手を受け入れること。自分を受け入れて欲しければ、相手を理解して受け入れることでした。私の場合、自分を受け入れて欲しいと利己主義ですが。

    最近、ネットでの誹謗中傷のニュースをよく目にします。自殺者も出てます。指殺人とも、呼ばれているそうですが、SNS社会である今、相手の事を知り、その人の気持ちまで考えられる世の中になって欲しいです。
    そして、私も新しい世界を避けていましたが、自分の人生を豊かにするために、新しい世界にも目を向けて行こうと思います。小さな事ですが、明日、本を買いに行く予定でした。いつも好きな作家さんの本ばかり物色してましたが、明日は知らない作家さんの本も買ってみます。

    いつも長いコメントですみません。
    旅行好きなもので、山舩さんの旅行ブログ楽しく拝見させてもらってました。とても勉強になりましたし、今の自分を反省するいい機会にもなりました。ありがとうございました。一言お礼が言いたくて、コメントさせていただきました。

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