今週末から昨年に引き続き94年前の美保関沖事件で、米子市・松江市沖に沈没した駆逐艦蕨(わらび)と同型艦葦(あし)の船尾部分の水中ドローンを用いた調査を行います。

昨年の調査では、無事に水深97m地点から約1世紀ぶりに駆逐艦蕨の船体前方部を見つけることが出来ました。その後、現状把握のために船体の3Dモデルを作成したところ、船体が底引き網漁の網に徹底的に破壊された現状が浮き彫りになりました。
昨年の調査後、この水中調査プロジェクトは、駆逐艦蕨の水中遺跡の「墓標としての保護」と、亡くなられた方々の「慰霊のための水中慰霊碑設置」を遂行実施するために、地元の「美保関事件慰霊の会」を中心に進んでいました。
その過程に、慰霊の会による地元漁師の方々への聞き取り調査中、駆逐艦蕨か葦の「船体後方」の沈没場所に関する情報を得ることが出来、慰霊の会の大原さんと地元企業のJoy Marineさんの調査により、魚群探知機で水深180m付近に大きな影を発見することが出来ました。
「慰霊の会」の松下会長をはじめ会員の皆様方、そして私たち研究チームのメンバーは、船体が真っ二つに割れて沈んだ駆逐艦蕨の「船体前方」と「船体後方」、そして衝突により欠損し沈んだ「駆逐艦葦の船尾部」の3箇所全ての場所で亡くなられた方の慰霊を最終目標に掲げています。
水中戦争遺跡における水中慰霊碑設置の意義についてはこちらを参照ください。
この目標を達成するために、まずは「蕨の船体後方」と「葦の船尾部」の発見と、これら船体の現状把握を行うために、今月(2021年7月)の19日~25日に、再び水中ドローンを用いた水中調査を行うことにしました。

今回の調査では3つの目標があります。
①7月19日~21日:マルチビーム音響測深を用いた駆逐艦蕨と葦の船尾部と思われる影があった海域の3D地図作成と、影の座標取得
②7月22日:水中ドローンを投下しての駆逐艦蕨と葦の船尾部の94年ぶりの発見
③7月23日~25日:フォトグラメトリを用いた駆逐艦蕨と葦の船尾部の現状把握(同19日~21日は蕨船体全部のフォトグラメトリ3Dモデル作成によって、昨年度からの船体の変化の測定/モニタリングデータ作成)
になります。
研究チームにおいては、昨年までは九州大学(浅海底フロンティア研究センター)と株式会社ワールドスキャンプロジェクトの合同研究チームでした。そして今年から日本海洋事業株式会社もチームに加わっていただきました。
この研究チームは元々「水中戦争遺跡の保護と慰霊活動を希望する団体の支援」だけを目的としたものではなく、「世界中の全ての海の全ての時代の水中文化遺産の未来への保護と保存」を目標とした研究チームで、水中戦争遺跡関連の活動(慰霊の会・遺族会への支援)はその一部となっています。
日本海洋事業さんは、JAMSTECが所有する深海6500などの開発や運用を行っている民間会社です。海に関する機械に関して間違いなく世界最高水準の知識・技術・経験を持っています。
「海を愛する会社」として私たちの取り組みに賛同、一緒に今後の活動を行っていただけることになりました。
日本海洋事業さんとの運命的な出会いについては、また機会があったらブログに載せます(笑)
私たちの研究チームも昨年度からバージョンアップして今年度の調査にのぞみます!
また、今回の調査には地元民間会社の「Joy Marine」さんが調査船を数隻無償提供してくれることに。更に「株式会社ハイドロシステム開発」さんもマルチビーム測深調査を無償提供していただけることになりました。
いくら感謝しても感謝しきれません。

そして今回の調査について、始まる前に私が個人的に一つだけ書いておきたいことがあります。
以下はあくまでも私個人の考えです。研究チームの総意というわけではありません。
よく、水中戦争遺跡の慰霊・保護・保存のための活動をしていると、「亡くなった方の墓標だからそのままにしておけ」という声も、少なからず聞こえてきます。この意見の出どころも理解できますし、80%ぐらいで賛同します。
しかし私は、太平洋諸国と世界各国で多くの(水中)戦争遺跡を見てきた立場から、これとは少しだけ異なった意見も持ちます。
確かに、水中戦争遺跡は「墓標」となりえます。
ただし「墓標」とは「慰霊」が伴ってはじめて成立するものです。
そして、そもそもなのですが、水中の沈没船において「慰霊」よりも優先すべきは「ご遺体・遺骨の回収」です。
そのうえで今回の蕨と葦のように水深の深い場所に位置し、遺骨の回収が難しい場合は、第二の優先事項として「水中慰霊碑設置」という形式での「慰霊」をおこないます。
現在の多くの水中戦争遺跡の現状は、忘れ去られ無視されている状態です。
さらにそもそもの話をします。「慰霊」を伴わない「水中戦争遺跡」は、単なる「海難事故現場」です。
そこで亡くなることになった方々も、そこで亡くなるのは意としたことではなく、沈没というのは海難事故(または戦争による被害)でしかありません。
もしこれが50年以上前の沈没船ではなく、「5年前の航空機の墜落事故」であったら、どう考えるべきでしょうか?
まずはそこで亡くなられた方のご遺体や遺骨を家族のもとや、人里離れた場所にあったら人里に戻し、そのうえで事故現場には慰霊碑を建てると思います。
私は水中戦争遺跡でも同じだと考えています。

更にここから先は、完全に私の「歴史家」としての個人的な意見です(つまり研究チームや慰霊の会は関係ありません。)。私は慰霊活動をしっかりと行い、ある程度継続したうえであれば、史跡として水中戦争遺跡を次の世代に残すことは意義のあることだと考えています。
例えば、原爆ドームが広島に在るというのは、そこで大勢の方が無くなったという事実を次の世代に伝えるだけの力があります。確かに、戦争直後には原爆ドームを見るのも嫌だという方もいたと思いますし、今でもいると思います。しかし、その世代の皆さんが「残す」という選択肢を取ったことで、今の世代の私たちが「原爆」に対する過去からのメッセージを受け取ります。
もし、そこで「亡くなった方がいるのだからそのまま風化させてしまうほうがよい」というのが通説としてこれまでもあったのであれば、日本史で重要な寺社仏閣やお城(城郭)はその時代に同じ考えを持つ人々によって保護されず、そのほとんどが消滅していたでしょう。
少し哲学的な言いまわしになりますが、「歴史(過去)とは常に未来(次の世代)のために在る」と私は考えています。
寺社仏閣や城郭と太平洋の戦争遺跡を一緒にするなと言われるかもしれませんが、私が自分の足でこれまで訪れた博物館の中で、一番訪れた意味があったと感じた場所が「アウシュビッツ強制収容所」跡にある歴史博物館でした。戦争遺跡には目をそむけたくなるような歴史や、その場所で亡くなった方が大勢いたとしても、次の世代に「残す」という選択肢には必ず意義があると思います。
なので私は「風化させる」という選択肢ではなく「次の世代に残す」という選択肢を選びました。
幸運なことに、現在は私の考えに賛同して下さる方々と研究チームを組み、今回のように慰霊の会や遺族の会から支援の依頼を受ければ、共同調査を行います。第一にこれは「慰霊」を目的にしており、沈没船を「興味本位で展示するための引き上げ」や「歴史の解釈」を行うものではありません。そのうえで地元の皆様が「沈没船遺跡を史跡とし、次の世代への保存する」という選択肢を取るのであれば、私は支援していくつもりです。
太平洋戦争や(水中)戦争遺跡も近い将来、「戦国時代」や「幕末」のような少し遠い歴史になります。その時に私たちの子孫の社会を少しでも豊かなものにするために、私は戦争遺跡も可能な限り保護し、残していきたいと考えています。
もちろん、人にはそれぞれ考えがありますので、「風化させたほうが良い」という考えも理解するように心がけます。たくさんの意見があってしかるべきです。意見は違えど、考えを持つことに反対はしません。地元の方々がそれを望んでいたとしたらそれに従います。
ただ、今後少しだけ皆さんに理解していただきたいのは、私たち研究チームは「研究」を行うためではなく「歴史と未来のため」に活動しています。
もし賛同して下さる皆様がいれば、是非今回のプロジェクトにも少し注目してやってください。
まぁ、さんざん偉そうなことも言いましたが、要は一研究者の戯言ですので、
「こいつ、面倒くさいな」などとは思わず、軽い気持ちで見守ってください(笑)
(右の人間ではありません、実際は少し左寄りです(笑))
まずは、来週の美保関沖事件の調査を慰霊の会の皆様と力を合わせ頑張ります。よろしくお願いします。