
この章では中世後期の北欧の船を見ていきましょう。
西暦800年にカール大帝の戴冠を始まりに現在のドイツ、チェコ、ドイツ、オーストリアを中心に新たなるキリスト教の国家が誕生しました。この新たなカトリック教会の概念を含んだ国家は、古代ローマ(西ローマ帝国)の後に続く新たなキリスト教の国家であることを謳い「神聖ローマ帝国」(Holy Roman Empire) と呼ばれました。特に11世紀~15世紀はドイツを中心に、現在のオランダ、ベルギー、フランス東部、スイス、イタリア北部、オーストリア、スロベニア、チェコ、ポーランド西部を包括した一大国家となりました。
11世紀頃になると、徐々にフランス、オランダ、ドイツの主要河川の流域の経済が豊かになり、12世紀にはいるとドイツ(神聖ローマ帝国)の商業都市と商人を中心とした北海・バルト海を網羅する巨大な商業都市同盟が産まれました。この同盟を「ハンザ同盟」と呼びます。この中世後期(12世紀中世後期~15世紀)にハンザ同盟の都市間貿易のために活躍した船を総称して「コッグ」と呼んでいます。中世後期の中欧と北欧はまさにハンザ同盟を経済を中心として栄え、それを支えたコッグ船は彼らの繁栄の象徴されています。
そしてこのコッグ船には2つのタイプがあります。1つはバイキング船を祖先とする中世後期にバルト海と北海で活躍したノルディック型タイプ。もう1つはドイツ西部やオランダ沿岸地域というハンザ同盟西部の大動脈で活躍したアイセルメーア型タイプです。このアイセルメーア型コッグはライン川流域で古代ローマ時代に使用されていた河川用ボートにヴァイキング船の造船技術を取り込み発達した独自の造船構造を有していました。つまりアイセルメーア型は「河川用」と「外海用」の両方の性質を組み合わせた構造を思っていました。
1962年にウェーザー川流域にあるブレーメンで発見された最も広く知られている保存状態の良いハンザ同盟の沈没船「ブレーメンコッグ船」もこのアイセルメーア型のコッグ船と考えられています。
ハンザ同盟

青線は主な河川を表しています。
都市間と商人たちの商業同盟であった「ハンザ同盟」は12世紀から15世紀にかけて北海とバルト海の沿岸地域と、そこから伸びる河川の流域地域の経済を支配した都市間の商業同盟でした。ハンザ同盟は特に13世紀と14世に最盛期を迎え、中世ヨーロッパ経済の中心となりました。
ハンザ同盟の誕生
9世紀になると中央ヨーロッパに神聖ローマ帝国が誕生しました。これはビザンティン帝国(東ローマ帝国)ではない西側のキリスト教の皇帝が復活したことを示します。さらに11世紀頃になると新しい農業用機材の発達によりフランス北部とフランダース地域(現在のオランダとベルギーの北部)のライン川とマース川流域で農業が盛んになり、生産性の向上と共にこの地域の人口が増えていきました。
様々な産業が盛んとなったこのライン川とマース川流域の地方で生産された衣類は特に品質が高く、ヨーロッパ全土に輸出されるようになりました。この衣類の原料になったのがイギリスで生産された羊毛です。これらの輸入と輸出のための航路の安全を守るためにフランダース地方のライン川とマース川流域の都市の商人たちは都市間の商業同盟を結ぶようになりました。これがハンザ同盟の始まりです。
ハンザ同盟の始まりは17のライン川とマース川流域の都市間で結ばれましたが、すぐにケルンなどのドイツの都市が加わり、 12世紀になると東欧の都市をも包括する商業同盟となっていきました。 ドイツ北部の都市だけでなく、他の国であっても同盟を結んだ都市はまとめてハンザ同盟都市と呼ばれました。
12世紀~15世紀にハンザ同盟の中心となったドイツの商人たちは現在のポーランド、スウェーデン、ロシア、ノルウェー、イギリス、フランダース地方にまで貿易商として活動の範囲を広げました。全盛期には約200もの都市がハンザ同盟都市に加わっていたとされています。
13世紀になるとリューベックとハンブルグ間の陸路が開通し、ハンザ同盟の商船(輸送船)は現在のデンマークがあるユトランド半島を迂回しなくてよくなり、バルト海の国々からやってきた貿易商品はリューベックで水揚げされ、陸路を通ってハンブルグに運ばれ新たに船に積まれ、そこからラべ川を下り北海の国々へ運ばれていきました。 これらバルト海沿岸の東ヨーロッパ諸国から西へ輸出された商品は穀物、海産物、毛皮、木材、小麦やビールなどがありました。
反対に西・中央ヨーロッパから衣類、塩、金属製品、ワインなどが輸出され、リューベックとハンブルグを通りバルト海周辺の国々へ輸出されていきました。
これによりノルウェー南部・スウェーデン南西部・デンマーク東部への貿易船を含め、全ての商品はドイツ北東部の港町であるリューベックを経由することになり、13世紀後半になるとリューベックがハンザ同盟の中心となりました。
ハンザ同盟のコッグ船

(右)ドイツのハンザ同盟都市シュトラールズンドの印。 (Gardiner and Unger, 1994)
コッグ船はその他の多くのハンザ同盟都市の街の印に描かれていました。街を象徴する街の印にコッグ船が描かれるほど、当時のハンザ同盟都市にとってコッグ船は象徴的な存在でした。
船の細かい特徴などに関わらず、当時のハンザ同盟の都市間で輸送船(商船)として活躍した全ての船は「コッグ船」(Cog)と呼ばれています。当時このハンザ同盟のコッグ船は現在のスペインとポルトガルのあるイベリア半島を周り、地中海に入りイタリアまで行くこともありました。中世後期のイタリアの記述では、これらハンザ同盟の輸送船を「コッゲ船」と記していました。
地中海で運用していた三角帆でカーバル・ビルドの商船に対し、北欧のコッグ船の特徴としては
- ラップストレーク構造の船体側部をしている。
- 一本のスクエアセイルを有している。
- スターンラダー(船尾舵)を有している(1250年以降)
などがあります。
特にスターンラダー(船尾舵)と呼ばれる1250年以降に北欧で使われ始めた新しい舵は船の操縦性を格段に向上させました。
(このスターンラダーの起源には諸説があり、インド洋でアラブの船で最初に使われ、それが地中海を飛び越して北欧にたどり着いたという説もあります。しかしちょうど13世紀にハンザ同盟都市でスターンラダーを船体に取り付けるためにつかわれたガジョン(留め具)が発明され、建物の扉に広く使われ始めました。そのため北欧の船に使われたスターンラダーの起源は「扉」であった説が有力だと考えられています。)
この次はいよいよ、この中世後期の北欧でハンザ同盟の輸送船として活躍した2タイプのコッグ船の違いを詳しくみていきましょう。
ノルディック型コッグ
ハンザ同盟の中心となったリューベックの位置するドイツ北東部はもともとスラブ系民族が住んでいた地域で、彼らはバイキングを祖先とする民族でした。神聖ローマ帝国の領地拡大と共にかれらは国家の一部となりましたが、これは侵略されて滅んだのではなく、吸収されたと捉えた方がいいでしょう。
またあらたにキリスト教国家となったノルウェー、デンマーク、スウェーデンもヴァイキングを祖先に持つ民族でした。
つまり中世後期にハンザ同盟都市の成立する北欧のほとんどの地域と人々の間では既にヴァイキング船が伝統とした船が使われており、このヴァイキング時代の造船技術と伝統は中世後期になっても続いていきました。従ってハンザ同盟で主に運用されていた船は北欧でヴァイキング時代から使われていたクリンカービルトの外洋船でした。このヴァイキング船から発展したハンザ同盟の輸送船はノーディック型コッグ船と呼ばれています。

ノーディック型コッグの主な特徴は以下になります:
- 船体全体が外板の重なり合った「ラップストレーク」構造で、
外板どうしは鉄鋲で留められていたクリンカービルト(鎧張り)である。 - 外板とフレームは木釘で留められている。
- 船尾材は真っすぐで船首材は弧を描いている(例外あり)

(右)ノルディック型コッグ船(カルマ―沈没船群1号船)の船体中央の断面図。(Akerlund, 1951)
ノーディック型コッグに対しアイセルメーア型コッグは船底部の外板がラップストレークではなく、バットジョイントになっており、これがこの二つのタイプのコッグの最大の違いになっています。
次にハンザ同盟が貿易と経済の主役となっていた 北欧の中世後期に大半の地域で運用されていたと思われるノーディック型コッグの沈没船を紹介しています。
バルト海側
ここではハンザ同盟の東側地域、主に東ドイツとポーランド、スウェーデン、エストニアなどの現在の東欧諸国の国々とを繋いでいたノーディック型「コッグ船」の沈没船を紹介しています。
カルマル(カルマ―)沈没船群 (Kalmar Wrecks)

カルマル沈没船群はスウェーデン南東部のカルマルで発見されました。この場所は嵐から船舶と守ることのできる湾となっており、古くから多くの船が停泊場所として使用していました。ハンザ同盟が力を持っていた中世後期には多くのドイツからの輸送船もこの地方に鉄の鉱石とニシンを買い取りにやってきました。
カルマル湾内から11世紀以降の25隻の沈没船が発見されました。そのうち少なくとも7隻がハンザ同盟都市に運用されていた11世紀末から16世紀までの船であったことがわかっています。その他の船の多くは17世紀のものでしたが、これらの船もラップストレーク構造を持っていました。これらから バルト海の小型から中型船の船舶はハンザ同盟時代以降も ラップストレークのノルディック型(バイキング船に似た)造船技術を使用していたとされています。(大型船においてはバルト海でも17世紀に入るまでに地中海のようなカーバルビルトの船に代わっていました。)
以下がカルマル沈没船群のなかで保存状態の良かったハンザ同盟に運用されていたと思われる沈没船の基礎情報になります。
1号船:西暦1250年頃、全長11m・最大幅4.55m。
2号船:西暦1300年頃、全長19m、最大幅6m。
3号船:西暦1300年~1400年頃、小型の手漕ぎボート。
4号船:西暦1450年~1500年頃、全長16m、最大幅4m。
5号船:西暦1500年頃、全長16m、最大幅6m。
キホルム沈没船 (Kyholm Wreck)

デンマーク東部のキホルム (Kyholm) という孤島で発見された沈没船は船の前半(船首)部分だけが残存していました。この船も外板構造全体にラップストレークが見られ、ノルディック型の船であったことがわかっています。研究調査の結果からこの船は13世紀にノルウェー西部の木材を使い建造され、ノルウェー南部かスウェーデン南西部のフィヨルド地帯で運用されていた船であったとされています。
この船が他のノルディック型コッグと違い興味深いのは、船首材がアイセルメーア型コッグのように比較的真っすぐの形をしていたということです。
ボーレ沈没船 (Bole Ship)

ボーレ沈没船はノルウェー南部のシーエン川 (Skien River) で発見されました。この船もノルディック型コッグの造船構造を有しており、弧を描く船首材と真っすぐの船尾材を持っていました。発掘された木材を分析したところ、ボーレ沈没船はポーランド産の木材を使用し、1376年から1396年頃に造られた船であったとわかりました。おそらくポーランドの船がノルウェーで沈没したか、もしくはポーランドから輸入された木材を使用し、ノルウェーで造られた船であったと考えられています。
リガ沈没船 (Riga Ship)

リガ沈没船は現在のエストニアの重要なハンザ同盟都市であったリガ (Riga) で発見されました。リガ沈没船もノルディックの伝統的な船体を持っていましたが、船首材はブレーメンコッグ船のように真っすぐでした。年輪年代測定によると船は1550年頃に造られ、その船体に使用していた木材はエストニア産でした。おそらくリガを母港にしたハンザ同盟の輸送船だったと考えられています。
北海側
北欧の海において「ラップストレーク」または「クリンカビルド(鎧張り)」の船はヴァイキング達に使われていたことで有名なので、どうしても「ラップストレーク」船はヴァイキング時代(紀元後8世紀から11世紀まで)のみに使われてという錯覚に囚われてしまいそうになります。しかしヒョルトスプリング・ボート(紀元前350年頃)からわかるように、既に紀元前4世紀には北欧の海でラップストレーク構造の船は使われていました。さらにこのラップストレーク構造を持った船は北海でも15世紀まで使われていたと考えられています。これはイギリスで発見されたグレース・デュー沈没船(Grace Dieu)が15世紀の建造当時はラップストレーク構造で、その後に船体の修復でバットジョイント構造に変更されており、そのため15世紀が北欧(北海)におけるラップストレーク構造かバットジョイント構造(カーバルビルト)への転換期になっていたと考えられています。この様にバルト海、北海に限らず、古代と中世において北欧の海で運用されていた船のほとんどがヴァイキング船を祖先に持ち、ラップストレーク構造を有していました。
セイント・ピーターポート沈没船群 (St Peter Port Wrecks)

フランスのノルマンディー沖にあるイギリス領のチャンネル諸島ガーンジー島で9隻の沈没船が発見され発掘調査が行われました。そのうち8隻がハンザ同盟が力を持っていた13世紀半ばの輸送船でした。幾つかの船は全長20mを越え、中には全長25mを超える船もありました(8号船)。
船に使われていた木材の分析結果から、この船がイギリス南部で造られたことがわかっています。
ニューポート沈没船 (Newport Ship)
イギリスのウェールズ地方南東部で全長35mにもなる巨大なノーディック型の輸送船が発見されました。船体木材の分析結果からこの船が1450年頃にスペイン北部のバスク地方で造られ、スペイン北部とイギリスとの貿易に運用されていたとされています。
アバーヴラック1号沈没船 (The Aber Wrac’h I Wreck)
フランス北西部のアバーヴラック川の河口でノルディック型の構造を持った船が発見されました。この沈没船の全長は少なくとも25m以上、最大幅は8mと大きな船でした。文献資料と炭素年代測定によると、この船は15世紀半ばにイギリス人商人の依頼によりスペイン北部で造られた船だということがわかりました。
アイセルメーア型コッグ
バイキング船を祖先とするノーディック型の輸送船(コッグ船)と異なる造船構造をもったハンザ同盟の輸送船(コッグ船)の沈没船遺跡が、現在のオランダと西ドイツの沿岸・潟・河川から発見されています。このタイプの輸送船が大量にオランダのアイセル湖から発見されたため、これらノルディック型の船とは異なる構造を持ったコッグ船をアイセルメーア型コッグと呼ばれています。
とくに有名なのがドイツ西部のブレーメンで発見されたブレーメンコッグ船です。ブレーメンコッグ船は保存状態がよく、ほぼ完ぺきな状態で船体全体が発見されました。
アイセルメーア型コッグの特徴

アイセルメーア型コッグの一番の特徴は、(船を輪切りにした時その断面図が)平たい船底をしているという点です。この船底の外板どうしは接合されていません。
この船底部の平らな船はボトムベース・コンストラクションと呼ばれています。この造りの何がそんなに重要かというと、船の造船工程において、このボトムベース・コンストラクションの船は、船底部の外板を一番最初に組み立てているという点です。つまり、これまでに見てきたシェルファースト(外板部を最初に組み立て外板どうしはお互いに接合されている)、フレームファースト(フレームを最初に組み立てる。外板どうしは接合されていない)とも違った造船のコンセプトを有した船でした。このボトムベース・コンストラクションは「船底の外板を先に組み立てる、しかし外板どうしは接合されていない」という船だったのです。
この船底の平たい船体構造は喫水が短いため、川や浅瀬で重宝されました。とくに「ハンザ同盟」の西側では主な同盟都市であるハンブルグ、ブレーメン、ケルン、そしてロンドンは海沿いではなく河川の流域にあり、外洋だけでなく河川でも直接運用できる平底の船が重要でした。
さらに12世紀末、ユトランド半島を周らずに北海とバルト海を河川と陸路でつなぐハンブルグ―リューベック間の貿易路が開通しました。これにより12世紀から14世紀にかけ西ドイツではラべ川を遡りハンブルグまでたどり着くことできる平たい船底を持った、河川と外海の両方で運用できるコッグ船が最重要の輸送船となったのです。
アイセルメーア型コッグ船
コーロップ沈没船 (Kollerup Wreck)

ハンザ同盟の初期(西暦1150年頃)の輸送船(コッグ船)であるコーロップ沈没船 (Kollerup wreck) がデンマーク北部で発見されました。当初はヴァイキングに似た外観からノルディック型のコッグ船だとも考えられたのですが、その船底部の構造部分にラップストレーク構造がみられず、その船底部の外板はバットジョイントでした。これからコーロップ沈没船は「ノルディック型」の船とは違う「アイセルメーア型」の船だということがわかりました。
またコーロップ沈没船を含め初期のアイセルメーア型のコッグ船において注目すべき点は、マストステップに(キールソンと一体となったマストステップではなく)補強されたフレームが直接使われている点です。
またコーロップ沈没船の発見場所はデンマーク北部なのですが、船体の木材はデンマーク南部のものとわかりました。そのためこの船はデンマーク南部で造られた船だと考えられています。
ちなみに上の図のクォーターラダーは間違いで、最近また行われた研究でコーロップ沈没船にはスターンラダーが装備されていたことが分かっています。コーロップ沈没船のスターンラダーが一番古い発見となります。
ブレーメンコッグ (Bremen Cog)

1962年にブレーメンのヴェーザー川から保存状態の極めて良いハンザ同盟の輸送船が発見されブレーメンコッグ船と名付けられました。このブレーメンコッグ船はドイツで初めて発見されたコッグ船で、現在のドイツの国家としての起源でもある神聖ローマ帝国の黄金時代を支えた船の遺跡として、スウェーデンの「ヴァーサ号」、イギリスの「メリーローズ号」のように国家の歴史を象徴する船として、保存処理後に博物館が建てられ、ドイツで最も有名な沈没船遺跡として知られています。

ブレーメンコッグ船は全長が23.23m、最大幅が7m、側面部の高さが4.3mとなっています。また研究と分析結果により1380年に建造されたとわかりました。
平たいバットジョイントの船底部と、ラップストレーク構造の側面部を有しており、キール(竜骨)ではなく平たいキールプランク(竜骨板)が使用されていました。外板とフレームの接合にはダブルクランチの鉄釘が使われていました。またアイセルメーア型コッグ船の特徴ともいえる、真っすぐの船首材を使用していました。
しかしながらコーロップ沈没船や他のハンザ同盟初期のアイセルメーア型コッグ船とは異なり、フレームを補強した横型のマストステップではなく、ヴァイキング船のようなキールソンと一体となったマストステップを有していました。
アイセルメーア型コッグの祖先
コーロップ沈没船やブレーメンコッグ船からわかるように、アイセルメーア型のコッグ船が造船コンセプトという視点で、「ボトムベース・コンストラクション」というノルディック型の船と全く違ったつくりをしていたことがわかりました。船舶考古学者たちはこの平たい船底を持ったアイセルメーア型の船の祖先はヴァイキング船ではなく、古代ローマ時代にその河川で活躍したいた船であったと考えられています。
紀元後1世紀から4世紀頃(古代ローマ後期)にかけイギリス南部も「ブリタニア」と呼ばれた重要なローマ帝国の属州でした。そのため現在のロンドンとローマを結ぶ貿易が盛んになり、その中央部分をしめるライン川流域では独自の河川運用の船、また河川と外海の両方で活用できる船の造船技術が発達しました。このライン川流域で紀元後1世紀から4世紀頃にライン川流域でつくられ運用された船をロマノ・ケルティック船(Romano-Celtic Boats) と呼ばれています。
このロマノ・ケルティック船の特徴として:
船底が平らでバット・ジョイント(Butt Joints)である。
キールは無いか、平たいキール板を使用している。
外板はフレーム(肋骨)にダブルクランチの鉄釘で留められている。
*側面の外板はバット・ジョイントとラップストレークの両方が見られる。
があります。
古代ローマ帝国と北海を結んだロマノ・ケルティック船の沈没船
次に古代ローマの時代に南ヨーロッパのローマ帝国とイギリス南部を含むヨーロッパ北部を繋いだ古代ローマの河川用の船を見ていきましょう
ブラックフライヤー沈没船 Blackfrier Ship (紀元2世紀)

ロンドンのテムズ川でブラックフライヤー沈没船が発見されました。この船はボトムベース・コンストラクションの構造を持っており、船底部が初めに造られ(シェルファースト・コンストラクション)、その後に側面部が組み立てられていました(スケルトンファースト・コンストラクション)。キール(竜骨)はなく、キールソンではなくフレームがマストステップとして使われていました。また外板とフレームの接合にはダブルクランチの鉄釘が使われていました。
研究により、この船は紀元後2世紀に古代ローマ帝国の本国北部とブリタニア地方(現在のイギリス)との貿易に使われた外洋船であったと考えられています。
そして北海で運用された外洋船でありながら、テムズ川を遡りロンドンへ、そしてライン川を遡り大陸深部(古代ローマ帝国本土北部)へ辿り着くことのできる、外洋兼河川用の輸送船として活躍していたとされています。
ズーテルメール沈没船群 (Zwammerdam Wrecks) (紀元後2世紀)


現在のオランダのズーテルメール地方で3隻の紀元後150年頃~225年頃のバージ船が発掘されました。これらのバージ船は3隻ともボトムベース・コンストラクションの構造を持っており、外板とフレームの接合にもダブルクランチの鉄釘が使用されていました。この3隻のバージ船で興味深いのは船底部の外板はロマノ・ケルティック船と同じくバットジョイントだったのですが、船体側面部外板はラップストレーク構造でした。この船底部がバットジョイントで側面部がラップストレーク構造というのは後に同じ地域(神聖ローマ帝国の西部)で活躍するブレーメンコッグ船を代表するハンザ同盟のアイセルメーア型コッグ船と同じ構造になります。
この様な造船技術上の類似点や造船コンセプトの視点から、船舶考古学者達はブレーメンコッグ船をはじめとするアイセルメーア型コッグ船はヴァイキング船ではなくロマノ・ケルティック船がその直接の祖先であったと考えられています。
古代の「ロマノ・ケルティック船」と中世の「アイセルメーア型コッグ」の共通点としては、
・ダブルクランチの鉄釘を外板をフレームに留めるのに使用している。
・ボトムベース・コンストラクションである。
などです。
しかし重要な点は、ヴァイキング船とロマノ・ケルティック船は同時代に共存しており、アイセルメーア型コッグ船はロマノ・ケルティック船の造船技術だけでなく、ヴァイキング船の造船技術も取り入れ進化していったのです。
<まとめ>ハンザ同盟の2種類の輸送船
12世紀から15世紀にかけてノルディック型とアイセルメーア型の2種類のコッグ船(輸送船)は同時期に運用され、ハンザ同盟の経済を支える船として活躍していました。
12世紀から13世紀にかけてロマノ・ケルティック船を祖先とするアイセルメーア型コッグは、河川上流に同盟都市が多かった神聖ローマ帝国(現在のドイツ)の西部とフランダース地方(現在のオランダとベルギー)で主に運用されていました。
13世紀になりハンブルグとリューベックを繋ぐ陸路が開通すると、ドイツ西部ではハンブルグまで船で遡ることが出来るアイセルメーア型コッグ船がより重要になりました。 ブレーメンコッグ船のような河川・外洋の両方船は、川の上流にあるハンブルグ、ケルン、ロンドンなどの都市へ、またはフランダース地方沿岸部の浅瀬でも運用ができるためとても重宝されました。
いっぽう13世紀後半以降ハンザ同盟の中心となったリューベック(ドイツ北東部)とバルト海に広がるハンザ同盟の都市間での貿易ではバイキング船の子孫である優れた外洋船のノルディック型コッグが引き続き運用されていました。これはバルト海だけでなく北欧の西端地域であるであるイギリス、フランス東部、スペイン東部でもこのノルディック型コッグが主な輸送船として運用されていました。
この後、北欧伝統のノルディック型コッグはイベリア半島(スペインとポルトガルのある半島)で地中海の船と交わり、より優れた大航海時代の船となり、北欧の伝統の造船は16世紀にはいると徐々に消えていきます。
一方でアイセルメーア型コッグは大航海時代の船の伝統と交わりつつ、その基本コンセプトであるボトムベースコンストラクションはオランダの造船技術の核となり、後の17世紀のオランダの黄金時代を支えていくととなります。
次の章ではいよいよ「世界を一繋ぎにした船」大航海時代のイベリア船を見ていきましょう。
<大航海時代の幕開けと、冒険者たちのイベリア船 (1420年頃~1600年頃) >
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