中世地中海の船、東ローマ帝国とヤシ・アダ七世紀沈没船(西暦625年頃)

ここからは中世の地中海世界における船の考古学を見ていきましょう。

西洋史における中世とは西ローマ帝国が滅亡した西暦476年から1463年の東ローマ帝国の滅亡までの約1000年間を示します。(または15世紀後半の、イタリアで興ったルネサンスがヨーロッパに全域広がった時期が中世の終わりとする説もあります。)

東ローマ帝国(ビザンティン帝国)と「暗黒時代」

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中地中海におけるローマ帝国の勢力圏。緑が東ローマの首都ビザンティウム。赤が西ローマのローマ。(Bass, 1974)

西暦330年にローマ帝国の首都が現在のトルコのビザンティウム(コンスタンティノープル)に移されると、それまでのローマを中心にした地中海西側を「西ローマ帝国」、トルコのビザンティウムを中心にした地中海西側を「東ローマ帝国」または「ビザンティン帝国」を呼ぶようになりました。

西ローマ帝国はゲンマン民族の侵略により西暦476年に消滅します。そしてローマ帝国は東ローマ帝国(ビザンティン帝国)のみになり、その後1463年に東ローマ帝国が滅びて「オスマントルコ帝国」が誕生するまで約1000年間続きました。

中世の1000年間は「古代ギリシャ・ローマ帝国の豊かな文化と学問の勃興」と近世の「ルネサンスにおける芸術と知識の再興と追及」とのはざまの「暗黒時代」とも呼ばれます。

この時代のヨーロッパは西ローマ帝国の滅亡後に西側で復興した神聖ローマ帝国(カトリック)と東ローマ帝国(ビザンティン帝国)(ギリシア正教会)など、キリスト教がヨーロッパで繁栄した時期であり、他の文化との新たな交流が行われませんでした。そのため学問や芸術面での停滞が起こりました。(実際には、小規模な文化交流と芸術文化の発展は、中世中期の西暦900年頃から各地域で見られており、「中世」を一纏めに暗黒時代とすることは一般的ではありません。)

東ローマ帝国(ビザンティン帝国)と船

初期の東ローマ帝国(ビザンティン帝国)(西暦330年~西暦630年頃)では、これまでに見てきたような詳細な歴史的記述や美術作品などは減少し、それに伴い船舶考古学の研究に役立つ歴史的資料も発見されなくなりました。

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中世初期の船を描いたモザイク画。上の船は帆が逆に描かれており、画家に船の知識が乏しいことが判ります。(Bass, 1974) (Image © National Geographic Society) 

中世初期、数少ない中でも船が最も良く描かれているのが、北イタリアのアドリア海沿岸の港町「レヴァンナ」で発見されたモザイク画です。このモザイク画から船の舵が大きなマウント(取り付け台)によって付けられていた事が判ります。この画が中世の地中海世界においてスクエアセイル(横帆)の最後の描写となり、その後の地中海では15世紀後半までラティーンセイル(三角帆)が一般的なものとなります。

このモザイク画の最上部に描かれたの船の帆が逆向きになっているころからも窺がい知ることができるように、中世に入ると美術作品などの考古学的資料としての質は落ちてしまいました。船舶考古学においても、これら美術作品に描写されたものから当時の船の様子を考察することは難しく、それゆえに「沈没船」の研究が当時の船を知るうえでより重要になっているのです。

この時代の代表的な沈没船遺跡にはつぎのようなものがあります。

  • ヤシ・アダ四世紀沈没船(Yassi Aga 4th-century wreck: 4世紀、トルコ)
  • イアンセ・セント・ジャーヴァイス沈没船(I’anse Saint-Gervais wreck: 6-7世紀、フランス)
  • マザメミ教会沈没船(Marzamemi Church wreck: 6世紀、イタリア)
  • ヤシ・アダ七世紀沈没船(Yassi Aga 7th-century wreck: 7世紀、トルコ)
  • ドー沈没船(Dor wreck: 7世紀、イスラエル)

この章では「ヤシ・アダ」の2つの沈没船(なかでも、七世紀沈没船を主体に)によって、中世初期の地中海の造船技術を見ていきましょう。

ヤシ・アダの四世紀沈没船と七世紀沈没船

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船が衝突して沈没したと思われるヤシ・アダ。「ヤシ・アダ」とは「平らな島」という意味です。(Bass, 2005) (Photo courtesy Charles R. Nicklin)
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ヤシ・アダの地図。トルコ東海岸のボドゥルム(船舶考古学研究所の本部と博物館があります。)から近い位置にあります。(Bass and van Doorninck, 1982) (Illustration courtesy Sheli Smith)

ジョージ・バス博士は、ケープゲレドニア沈没船の水中発掘を行った翌年(1961年)、当時ペンシルバニア大学博士課程の学生であったフレドリック・ヴァン・ドーニック(博士)(Frederick van Doorninck: 後のテキサス農工大船舶考古学科の初代教授の一人) を伴い、トルコ東海岸に浮かぶ「ヤシ・アダ」と呼ばれる小さな石の島に沈む沈没船の調査のためにトルコに戻ってきました。そして同年から1964年にかけてヤシ・アダ「七世紀」沈没船の水中発掘調査を、1965年から1967年にかけてヤシ・アダ「四世紀」沈没船の水中発掘調査を行いました。

ヤシ・アダ四世紀沈没船 (Yassi Ada 4th-century wreck)

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ヤシ・アダ四世紀沈没船の実測図。残念ながら様々な理由によりこの水中発掘調査が最後まで行われることはありませんでした。(Bass, 1974) (Image courtesy the University of Pennsylvania Museum)

ヤシ・アダ四世紀沈没船の発掘は1965年から1967年にかけて、1961年から1964年に行われたヤシ・アダ七世紀沈没船の後に行われました。その発掘調査は半ばで1967年に中断され、1974年に一時的に再開された以外、現在までこの船の発掘調査は行われていません。

発掘調査はその半ばで中止となりましたが、それでもこの調査で4世紀頃(西暦300年~400年)の地中海の造船技術の一端が明かされることになりました。

ペグド・モーティス・アンド・テノン接合

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ヤシ・アダ四世紀沈没船で見つかった外板のペグド・モーティス・アンド・テノン接合。以前に見た古代船のペグド・モーティス・アンド・テノン接合より小さく、より間隔を空けて配置されていました。(Steffy, 1994) (Illustration courtesy  Frederick van Doorninck)

外板同士はペグド・モーティス・アンド・テノン接合によって繋ぎ合わされていました。以前のものと異なる点は、テノン(ほぞ)の大きさがモーティス(ほぞ穴)よりもだいぶ小さくなっており、より簡単(経済的)な造りになっているところです。ペグは船体の内側から打ち込まれています。

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ヤシ・アダ四世紀沈没船の中心部のフレームのセクション(断面)図。外板とフレームの接合には木釘が使われていました。(Bass, 1974) (Drawing by Frederick van Doorninck)

フレームは外部から木釘で留められていました。ペグド・モーティス・アンド・テノン接合の接合部とフレームの位置は重なっている場所もあります。ペグが内側から打ち込まれているということは、この船が外板部から先につくられていることを示す証拠になっています。

ヤシ・アダ七世紀沈没船 (Yasssi Ada 7th-century wreck)

次に1961年から1864年に発掘されたヤシ・アダ七世紀沈没船について見ていきましょう。ジョージ・バス博士とフレドリック・ヴァン・ドーニック博士によって発掘され、後にリチャード・ステッフィー教授によって研究された「ヤシ・アダ七世紀沈没船」は中世初期の地中海の造船技術を理解するうえで最も重要な沈没船になりました。

丁寧で綿密な水中発掘を行い、その後に優秀な研究者によって分析研究がなわれると、いかに沈没船の船体の保存状態が良好でなくても、考古学上重要かつ貴重な知見を数多く得ることができることを証明する重要な事例となっています。

船体の保存状態

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ヤシ・アダ七世紀沈没船の実測図。船体の保存状態は悪く、フレームはほとんど残っていませんでした。(Bass, 1974)  (Drawing by Frederick van Doorninck)
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ヤシ・アダ七世紀沈没船のセクション復元図。色の濃い部分が実際に残っていた部分になります。(Bass and van Doorninck, 1982) (Image courtesy Frederick van Doorninck)

残念のことに、発掘された船体は破損・劣化が相当程度に進んでおり、船体の左舷の中央部から船尾付近にかけてのみ残されていました。キール付近ではフレーム(助骨)は完全に朽ちており、発見されたフレームは船体側面付近のものでした。

しかしながら、幸運なことに、この側面部から3つのウェールが見つかっていました。このウェール、フレームの残存部分とその曲線、ならびにそれらの発見場所がステッフィー教授の手によって繋ぎ合わされたことにより、船の全体像が見えてきました。

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ヤシ・アダ七世紀沈没船の復元船型図。船体の残存部分と積み荷のあらゆる情報をもとに復元されています。(Bass and van Doorninck, 1982) (Drawing by J. Richard Steffy)

船首は形だけは考古学者の仮説による部分が大きいのですが、全体の形や大きさは発見された部位と「船型図の規則」によって再現されています(いわゆる船の「復元再構築(Ship Reconstruction)」。

復元されたヤシ・アダ七世紀沈没船は全長21.4mの小型の近海用の貨物船で、全長と最大幅の比率が4:1と比較的細長い形をしています。1本のマストとラティーンセイルを装備していたと考えられています。

船体残存部分の考察

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ヤシ・アダ七世紀沈没船のモーティス・アンド・テノン接合。四世紀沈没船にあったペグが無くなり、テノンもより小さくなっています。(Steffy, 1994)

外板部はモーティス・アンド・テノン接合によって組み立てられていました。しかし、テノンはヤシ・アダ四世紀沈没船より小さくなっており、テノンはペグによって留められてはいませんでした。テノンはモーティスよりもサイズが小さくなり、その間隔も約2.25m間隔ととても広くなっていました。いままでにみてきたモーティス・アンド・テノン接合より緩い造りになっていました。

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外板接合の変化。上がキレニア沈没船(紀元前290年頃)、真ん中がヤシ・アダ四世紀沈没船(西暦380年頃),下がヤシ・アダ七世紀沈没船(西暦625年頃)。外板同士の接合が徐々に弱くなっていることがわかります。(Steffy, 1994)

これまで見てきた古代の沈没船は重厚なモーティス・アンド・テノン接合によって頑丈な外板部が組み立てられ、次にフレームが外板部の補強材として置かれた作りになっていました。

一方、ヤシ・アダ七世紀沈没船では造船工程の基礎となってきモーティス・アンド・テノン接合が小さくて緩く、それだけでは外板を支えることが困難になっています。そこで従来の船より大きな強度を持つフレームを置くことによってはじめて船体が形造られるようになっており、造船におけるフレームの役割が古代の船よりも格段に重要になっています。

しかしながら船体底部の外板はモーティス・アンド・テノン接合が用いられており、このヤシ・アダ七世紀沈没船はシェル・ベース・コンストラクションの船でした。

興味深いことに、船体の喫水部分(水面の高さ)まではモーティス・アンド・テノン接合が使われており、その上部ではモーティス・アンド・テノン接合はみられず、外板が直接フレームに留められていました。この船は基本的にはシェル・ベース・コンストラクションですが一部(喫水線より上)にはスケルトン・ベース・コンストラクションのコンセプトも見られ、いわば古代船と現代の船のハイブリッドのような船であったのです。

ヤシ・アダ七世紀沈没船では、外板とフレームの接合に従来よりかなり短い鉄釘が使用されていました。従来の古代船では、長い銅釘を使っていました。銅釘(または木釘)を使用するには、前もってドリルで釘穴を掘っておく必要がありました。一方、より強度の大きい鉄釘は、現在の釘のように直接外側から外板をフレームに打ち込むことが出来ます。

また、発見されたウェールもこれまでに見てきた外板を分厚くしたような作りではなく、単に丸太を半分に切っただけのものでした。

船体水面下部のみに用いられた簡素なモーティス・アンド・テノン接合、そして短い鉄釘の使用と併せて見ても、この船がこれまで見てきた古代船よりも一層簡素な作りになっていることが判ります。

船舶考古学者によるヤシ・アダ七世紀沈没船の造船簡素化の原因の考察

古代の地中海世界は強大な帝国が海上貿易を支配しており、商船にとっては平和に航海が出来る状況下にありました。しかし、中世世界では、強大であった西ローマ帝国は、ゲルマン民族の侵略によって滅んでおり、そのため、地中海における海上貿易は従来のように安全なものではなくなってしまったと考えられます。そこで、船を所有する商人は、船が襲われた際のリスクを考慮し、より安く簡単に造れる船を好んだのでしょう。

さらに西ローマ帝国が滅びたことによって、それまで存在していた巨大な都市は縮小していきました。そのため、これまで国策の一部として行われた、穀物などの輸送に必要なマドラグー・デ・ジアンズ沈没船のような巨大船の建造は必要で無くなっと考えられます。

加えて、政情が不安定で安全が保証され難くなった地中海の航海では、何より船のスピードと操縦性(敏捷性)が重視されたのでしょう。そのためヤシ・アダ七世紀沈没船のように全長と最大幅比が4:1と細長く(スピード重視)、ラティーンセイルを備えた(敏捷性重視)の船が中世初期の地中海で使用されていたと考えられるのです。

造船工程

発掘させた船体部分の残存部分を研究を通じて、ヤシ・アダ七世紀沈没船の造船工程が明らかになりました。

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ヤシ・アダ七世紀沈没船の造船工程① (Bass and van Doorninck, 1982) (Ship model by J. Richard Steffy)

①キールを組み立てた後、外板を下から6列モーティス・アンド・テノン接合によって組み立てます。ヤシ・アダ七世紀沈没船ではテノンはペグで留められてはなく、さらにテノンはモーティスよりも小さく作られていたので緩く、このモーティス・アンド・テノン接合には外板を確実にその場所に留めておくだけの強度はありませんでした。

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ヤシ・アダ七世紀沈没船の造船工程② (Bass and van Doorninck, 1982) (Ship model by J. Richard Steffy)

②次にこの船底部の強度を上げるために、短いフロアティンバーが置かれました。

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ヤシ・アダ七世紀沈没船の造船工程③ (Bass and van Doorninck, 1982) (Ship model by J. Richard Steffy)

③外板列を、外板が横向きから上向きに曲がる湾曲部(ターン・オブ・ザ・ビルジ: turn of the bilge) までモーティス・アンド・テノン接合で組み立てます。

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ヤシ・アダ七世紀沈没船の造船工程④ (Bass and van Doorninck, 1982) (Ship model by J. Richard Steffy)

④長いフロアティンバーを置きます。

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ヤシ・アダ七世紀沈没船の造船工程⑤ (Bass and van Doorninck, 1982) (Ship model by J. Richard Steffy)

⑤外板列をモーティス・アンド・テノン接合で水面部分の高さまで組み立てます。

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ヤシ・アダ七世紀沈没船の造船工程⑥ (Bass and van Doorninck, 1982) (Ship model by J. Richard Steffy)

⑥次にハーフフレームを置き、続いて長いフトック (Futtock) を短いフロアティンバーに近接するように置きます。

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ヤシ・アダ七世紀沈没船の造船工程⑦ (Bass and van Doorninck, 1982) (Ship model by J. Richard Steffy)

⑦残りのフトックを置きます。ヤシ・アダ七世紀沈没船のフトックは、それぞれ短いフロアティンバー、長いフロアティンバー、ハーフフレームと対になる形で置かれていました。

⑧この後も外板が引き続き組み立てていくのですが、重要な点はこの後に外板同士をモーティス・アンド・テノン接合で組み立てるのではなく、外板を直接フレームに鉄釘で留めることです。

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ヤシ・アダ七世紀沈没船のフレームとその備え付けられる順番。(Left: Steffy, 1994. Right: Bass and van Doorninck, 1982) (Illustration courtesy  Frederick van Doorninck)

積み荷による船体内部構造の考察

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ヤシ・アダ七世紀沈没船の発掘前の状態の実測図。船舶考古学では発掘後だけではなく発掘前・発掘中(各、積み荷や船体構造の層ごと)・発掘後の実測図を作成することが必要になります。(Bass and van Doorninck, 1982) (Drawing by Honor Frost)

ヤシ・アダ七世紀沈没船は約1400年前に沈んだ後、誰にも荒らされた形跡がない状態で見つかりました。その積み荷のほとんどが沈没時の位置から発掘されたのです。

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ヤシ・アダ七世紀沈没船から発掘されたアンフォラ。合計900個(40トン)のアンフォラが発掘されました。(Bass, 1974) (Photo by R. B. Goodman. © National Geographic Society)

ヤシ・アダ七世紀沈没船の主な積荷は、ワイン運搬用と推察されるアンフォラでした。遺跡からは900個ものアンフォラが発掘され、その合計重量は少なくとも40トンになります。

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ヤシ・アダ七世紀沈没船から発掘された(右)天秤用の重りと(右)金貨。(Bass, 2005) (Photo courtesy (left) Robert Goodman, (Right) Donald A. Frey)

ここで発掘された遺物のすべてを紹介するには量が多すぎるので、別の機会に譲ります。

しかしながら、ここで注目したいのが、船大工の道具が沈没船遺跡の特定の場所から、料理器具やオーブン用のタイルは別の特定の場所から、また、貴重品や高価な所有物はさらに別の場所から集中して発見されている点です。これらの発掘された遺物とその発見場所を考古学者が丁寧に記録することによって、船のどこに船長の部屋があり、どこに船大工の道具入れがあり、どこに食料が貯蔵されており、また、どこが船のキッチンだったかが判ってきました。さらに、その遺物の散乱具合を調べることにより、船の各部位の大きさが判ります。

積み荷や遺物の重さとバランスを調べ、それを発見された船体部と照合することによって、船体の一部が失われていたとしても、そこから船の全長と幅が推測できるのです。

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発掘された積み荷や船体の一部から復元されたヤシ・アダ七世紀沈没船の上部(甲板部)。(Bass and van Doorninck, 1982) (Drawing by J. Richard Steffy)

船体の残骸だけでなく、積み荷・遺物とその発見場所および散乱具合、ならびにその重量などの情報を総合して、船の全体像を復元するのが船舶考古学の醍醐味なのです。

だからこそ、発掘を行う際に水中考古学者がどれだけ丁寧に遺跡の水中での記録作業を行うかが重要になってくるのです。一度発掘された遺跡はもう元の状態には戻りません。

その一方で水中遺跡の発掘は、その作業環境が水中であるがために作業時間が限られています。発掘に携わる水中考古学者達は、限られた時間を有効に使うために、その沈没船のどのような積荷からどのような情報を引き出し復元できるか、予め他の沈没船研究の事例などから、知識として学び習得しておく必要があるのです。船体の残存部分が少ないながら、様々な船体情報を復元できたヤシ・アダ七世紀沈没船は、沈没船の発掘研究において範とすべき秀逸な事例として今でも伝説になっているのです。

復元再現模型

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ヤシ・アダ七世紀沈没船の復元模型の外側。左側が船首、右側が船尾になります。(Bass and van Doorninck, 1982) (Ship model by J. Richard Steffy, and Photo by Bobbe Baker)
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ヤシ・アダ七世紀沈没船の復元模型の内部。右側が船首、左側が船尾になります。(Bass and van Doorninck, 1982) (Ship model by J. Richard Steffy, and Photo by Bobbe Baker)

ジョージ・バス博士、フレドリック・ヴァン・ドーニック博士、そしてリチャード・ステッフィー教授を初めとする伝説の船舶考古学者による発掘研究によって、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の西暦625年頃の商船の全体像が見えてきました。

特筆すべきは、船尾付近の船長の部屋やキッチンなどが復元され、さらに発掘時の状況を通じて様々な備品や用具、船員の所有物の保管場所の復元まで行われたことです。

水中考古学 中世 地中海 ヨーロッパ 沈没船 
ヤシ・アダ七世紀沈没船の船尾付近にあったキッチンの再現イラスト。(Bass, 1974) (Drawing by H. Maggi)

このように考古学的資料から船の構造を復元することによって、当時の船乗り達がどの様に船で生活していたかも見えて来るのです。沈没船によっては当時の賭け事の道具や、船医の手術道具なども発見されており、そこから当時の船乗りたちの航海の様子に想いを巡らせるのも船舶考古学の楽しさなのです。

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再現されたヤシ・アダ七世紀沈没船のイラスト。(Bass and van Doorninck, 1982) (Drawing by J. Richard Steffy)

この発掘研究により、ヤシ・アダ七世紀沈没船は西暦625年頃に沈んだ東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の近海用のワイン輸送船であることが判りました。

まとめ

中世に入ると船に関する記述や美術作品が少なくなり、それらから当時の船の様子を窺がうことが出来なくなってしまいます。一方で、水中の沈没船遺跡の発掘調査と研究を通じて、船がどの様に造られていたかが判ってきました。

四世紀と七世紀の2つのヤシ・アダ沈没船によって、古代時代から続いてきた(ペグド)モーティス・アンド・テノン接合が徐々に簡素なつくりになってきており、それに呼応するようにフレームの造船工程における重要性が増してきていることが見えてきました。ついにシェル・ベース・コンストラクションの古代船からスケルトン・ベース・コンストラクションの船への移行が始まったといえます。

次は東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都であったトルコのイスタンブールで地下鉄の工事中に発見された西暦900~1000頃(中世中期)の沈没船遺跡をみていきます。

<中世地中海の船、東ローマ帝国イェニカピ港の沈没船遺跡群(西暦900年頃~西暦950年頃)>

<参考文献>

BASS, G. F., & VAN DOORNINCK, F. H. (1982). Yassi Ada. Vol. 1, Vol. 1. College Station, Published with the cooperation of the Institute of Nautical Archaeology by Texas A and M University Press

BASS, G. F. (2005). Beneath the Seven Seas: Adventures with the Institute of Nautical Archaeology. New York, Thames & Hudson.

BASS, G. F. (1974). A History of Seafaring Based on Underwater Archaeology. London, Book Club Associates.

STEFFY, J. R. (1994). Wooden ship building and the interpretation of shipwrecks. College Station, Texas A & M University Press.

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