ここでは紀元前800年頃から紀元前450年頃までの地中海における造船技術を見ていきます。
ローマ帝国が地中海の海上貿易の覇権を握ることになる紀元前200年頃より前の地中海には3つの海洋文明がありました。その3つとは「古代ギリシャの都市国家」、紀元前1200年頃の海の民の襲撃後に地中海全土に移住した「フェニキア人の海洋都市国家」、そして現在の北イタリアにあたる地域で繁栄した「エトルリア」です。

古代ギリシャの都市国家は紀元前800年から紀元前150年頃まで現在のエーゲ海を中心に地中海の各地域で繁栄しました。
フェニキアは紀元前1200年の「海の民」の侵略により一時的に衰退しました。その後、紀元前1000年頃から近東のサイロ・カナン地方で再び復興してきたのと同時に、地中海西側の北アフリカ沿岸やイベリア半島の南海岸地域に都市国家を築き、海洋文明として紀元前300年頃まで栄えました。
エルトリア文化は現在のイタリアで紀元前800年頃から紀元前500年頃まで栄えました。
これらの文明(文化)は徐々にローマ帝国に吸収されるかたちで消滅していきました。
フェニキアの帆船の模型 (紀元前800年頃)

紀元前800年頃のキプロス島のフェニキア文明圏の都市遺跡から船の模型が発掘されました。この船の模型はフェニキア人の商船であった「ガウロス船 (Gaulos) 」であると考えられています。模型をみるとこの船にはマストの土台となるマストステップとマストが動かないように支えるマスト・パートナーと呼ばれる部位が見られます。またマストの前方にあるビーム(梁)もマスト・パートナー・ビームと呼ばれ、後方から吹いた風を受け止めた帆の力(推力)によって押し出されるマストを前方から支える機能(同時に帆からの推力を効率よく船体に伝える)がありました。また、マストがあった形跡(マストステップ)が見られるにもかかわらずオールを通す穴(オール・ホール)があるところから、この商船が状況に応じて帆とオールを使い分けていたと考えられます。
古代ギリシャのホルカス船 (Holkas) (紀元前500年頃)

キプロス島に所在する古代ギリシア文明圏の地方都市から紀元前500年頃の船の模型が発掘されました。この模型は船首が凹形になっています。船首の形は「海の民」の船に近いものかもしれません。この形の古代ギリシャの船は「ホルカス (Holkas) 」と呼ばれていました。

ホルカス船は古代ギリシャ文明圏から発掘された陶磁器などに描かれることも多く、古代ギリシャの帆船やバージ船が「ホルカス」と呼ばれていたと考えられています。
エルトリアの墓に描かれた船(紀元前450年頃)

紀元前450年頃のエルトリアの墓の壁画にはホルカス船によく似た帆船が描かれていました。注目すべきところは、この船がメインマストの他に前方にもう一つのマストを備えているように見えるところです。この絵の描写が正確なら紀元前450年頃すでに2つのマストを備えた船が使われていたことになります。
この船は古代ギリシャ文明圏で使われていたホルカス船に酷似しています。これがエルトリアの帆船を描いたものなのか、エルトリア人が古代ギリシャのホルカス船を描いたものかは判っていません。
古代ギリシャの造船技術
次に、この時代の地中海で海上貿易を行なっていた古代ギリシャ(とエルトリア)の都市国家の船がどの様に造られていたのか、発掘された沈没船の事例に基づき紹介します。
この時代の地中海世界の様子を著したホメーロスの叙事詩「オデュッセイア」には、主人公のオデュッセウスが船を造った様子の記述があります。
彼(オデュッセウス)は20本の木を倒し、青銅の斧を使い慣れた手つきで木をまっすぐで平らな材木へと整えました。暫くして女神カリュプソーがキリを持ってくると、彼は木材に穴をあけドエル(だぼ・合い釘)で木材を組み合わせ、紐で縫い合わせ船を組み立てました。
(Odyssey, Book 5.244-48)
この記述を証明する発見が古代ギリシャの沈没船から見つかっているのです。
ボン・ポーテ沈没船(紀元前525年頃)



1974年、現在の南フランスのサントロペ (Saint-Tropez) で「ボン・ポーテ沈没船」が発掘されました。この沈没船から発掘された船の外板には、これまで紹介してきたものとは異なる接合方法が使われていました。
板と板に斜めの穴が空いており、そこに紐が通され縫い合わされていたのです。これは古代エジプトのクフ王の船で見た、船体を横断するように板から板に縄を通して外板を結び合わせていた接合方法(Lashed Construction: 結い付け接合)とも、また、ダッシャーボート(古代エジプト)やウル・ブルン沈没船(青銅器時代後期のフェニキア船)でみたモーティス・アンド・テノン接合(Mortise-and-tenon joinery)とも異なる「第3の外板の接合方法」でした。



ボン・ポーテ沈没船の隣り合う外板同士は13㎝間隔で埋め込まれたドエル(Dowel: だぼ、合い釘、両側の外板の打ち込まれた木製のピン)で組み合わされています。さらに外板の内側から外側に向かって斜めに、4㎝間隔に掘られた穴(斜めに穴をあけることによって、外板の接合部分を外側から見ると両側からの穴が接続部分で重なり、一つの穴に見える)に紐を通し隣り合う外板同士が縫い合わされています。この縫い目の部分(板の接合部分、外板の内側)には、繊維の束が水漏れを防ぐ目的で一緒に縫い合わされています。また防水の為に紐を通した斜めの穴も縫合後に内側から小さな木のピンで詰められています。この外板の厚さは2.5㎝と薄く、以前の時代の船よりもかなり軽量になっています。

フレーム(助骨)は約90㎝間隔でおかれています。このフレームも紐で外板に直接縫いつけられています。フレームの上面は紐へのストレスを軽減するために丸みを帯びており、下部は外板との摩擦面積を減らすために細くつくられています。
また外板の接合部の真上は縫合と防水のために繊維束で盛り上がっており、この部分との接触を避けるために、フレームも接合部分の直上は溝が彫られトンネル状になっています。

このボン・ポーテ沈没船からはマストステップ (Mast Step) も発掘されました。実際に沈没船遺跡から発見されたマストステップとしては最古のものと考えられます。
マストステップの上部(上の実測図では、3つの図の一番上が上面図、次が側面図、下が下面図になっています。)には大きな溝が彫られており、ここにマストの底部(付け根)を挿入します。その両面にある長方形の溝はマストが横に振られるのを防ぎ支える役割を持つマスト・パートナー(Mast partners)を設置するためものです。
さらにその少し前方にはマスト・パートナー・ビーム(Mast partner beam)という、帆に風を受けて前のめりになろうとするマストの力を受け止め支える役割を持つビーム(梁)を支える支柱を挿入するための溝が彫られています。これらマスト・パートナーとマスト・パートナー・ビームは上でも紹介したフェニキアの帆船の模型(紀元前800年頃)でも見ることが出来ます。

ボン・ポーテ沈没船のマストステップの下部を見ると、フレーム(助骨)を受け止めるための溝が彫られているのが判ります。このマストステップは二つのフレーム上に乗っており、さらにこのフレームが船体を横切るようにしてマストの重量を均等に外板へ伝えています。
このようにマストの重量と帆から伝わる力(推力)を分散して船体に伝えることによって、効率的に船体にかかるストレスを和らげるのです。このような造船技術を用いて外板を薄くすることを可能にし、造船の原材料費を安くしながら、同時に軽量化をはかり、船のスピードを増すことが可能にしたと考えられています。
船の進化の歴史を語るうえで重要なこの「マストステップ」は、後のローマ帝国の時代を経ながら、次第に船を縦断するように長くなっていき、次第にマストの重量を支えるだけでなく、船を内側から補強する役目も担うようになってきます。中世になるとボルトによって直接フレームやその下にあるキールと繋がれるようになって「キールソン(Keelson: 内竜骨)」が誕生するのです。
ボン・ポーテ沈没船は、同時に遺跡から発見された積み荷から、紀元前525年頃の古代ギリシャ文明圏に属する商船であったと考えられています。
このような効率的な外板の縫合接合 (Laced Construction)をもった船が、紀元前600年頃から400年頃の地中海から沈没船遺跡としていくつも発見されています。



ジリオ沈没船 (Giglio wreck)、 紀元前580年頃: イタリア北西部で発見されました。同時に発掘された積み荷からエルトリアの船であったとされています。
パブツ・ブルン沈没船 (Pabuç Burnu wreck)、紀元前560年頃: トルコ南西部で発見されました。同時に発見された積み荷から古代ギリシャの船であったと考えられています。
プレース・ジュレス・バーネ第7号船と第9号船 (Place Jules Verne VII wreck and IX wreck) 、 紀元前525年頃: フランス南部(マルセイユ)で発見されました。建設現場から発見された当時の港の遺跡からはいくつもの船の遺跡が発見されており、第7号と第9号船が紀元前6世紀頃の船であったとわかっています。積み荷などからこれらの船は古代ギリシャ文明圏の船であったと考えられています。
ジェーラ・ウノ沈没船 (Gela I wreck)、 紀元前500年頃: イタリア南部のシチリア島で発見されました。積み荷から古代ギリシャ文明圏の船であったと考えられています。
マアガン・ミケル沈没船 (Ma’agan Mikhael wreck)、紀元前400年頃: イスラエル沿岸部で発見されました。この船は発見された積み荷や木材などから現在のレバノン地域(近東、フェニキア文明圏)地域で作られた船であり、キプロス島(ギリシャ文明圏)からの帰港時に沈没したと考えられています。
この沈没船で重要なことは、縫合接合(Laced Construction) とモーティス・アンド・テノン接合 (Mortise-and-tenon joinery) の両方が使われていた点です。
この後の時代の沈没船では、再びモーティス・アンド・テノン接合のみが使用されていることから、古代地中海世界においてこのマアガン・ミケル沈没船が「縫合接合」から「モーティス・アンド・テノン接合」へ造船技術が転換した時期に造られた船であると考えられています。
この「マアガン・ミケル沈没船」については次の章で詳しく見ていきます。
外板を縫い合わせる接合方法(縫合接合)は、より洗練された「モーティス・アンド・テノン接合」に再びとってかわられることにより、地中海の大部分で紀元前400年頃までに姿を消してしまいます。しかし興味深いことに、イタリアの東側に位置するアドリア海では西暦1100年頃まで生き残っていました。さらにインド洋や東南アジア諸国では、現在でも類似の造船技術を用いているところもあります。
これは「縫合接合」が西側諸国から何千年前に消えてしまったとはいえ、極めて有用な技術であったことを証明するものだと私は考えています。
まとめ
沈没船を研究することによって、古代の地中海でギリシャの都市国家やエトルリア人がどのような新技術を駆使して船を造り、海上貿易を行なってきたか浮かび上がってきたと思います。
前述のように、外板の縫合接合は紀元前400年頃にモーティス・アンド・テノン接合にとってかわられます。モーティス・アンド・テノン接合により、船はより安価に丈夫になっていき、その後にローマ帝国の繁栄を支えていくことになるのです。
次は、この外板接合技術が紀元前400年頃に「縫合接合」からどの様な過程を経てより洗練された「モーティス・アンド・テノン接合」に推移していったのか「マアガン・ミケル沈没船」を例に見ていきます。
<古代船造船技術の転換点、マアガン・ミケル沈没船 (紀元前400年頃)>
<参考文献>
BASS, G. F. (1974). A History of Seafaring Based on Underwater Archaeology. London, Book Club Associates.
BASS, G. F. (2005). Beneath the Seven Seas: Adventures with the Institute of Nautical Archaeology. New York, Thames & Hudson.
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STEFFY, J. R. (1994). Wooden Ship Building and the Interpretation of Shipwrecks. College Station, Texas A & M University Press.