前章までは、古代船の造船技術である「シェル・ベース・コンストラクション (Shell-based construction) 」によって造られた船を見てきました。船の外板を最初に組み立てるこの造船方法が産まれたのは、これらの船の祖先が丸木舟 (Dugout canoe) や筏であったからだと考えられています。丸木舟や筏では、積み荷や漕ぎ手の数を増やしたいときに、丸木舟の側面に板を足して船体を大きくしていきました。そして足した横板と丸木舟本体のつなぎ目を補強するためにフレームが添えられ始めました。このようにして人類の造船史が始まったために、私たちの祖先は外板を先に組み立てるシェル・ベース・コンストラクションに対して疑いを持たなかったのです。
やがて文明が起こり、より複雑な船が造られていきました。その経験の中で、効率の低いモーティス・アンド・テノン接合が簡略化(洗練)されていき、それに伴いフレームの役割が大きくなっていったのです。

そして西暦で最初の千年が終わったころ、ついにフレームを造船工程の核としたスケルトン・ベース・コンストラクション (Skeleton-based construction) が登場します。この新たな造船のコンセプトは突然に出現したのではなく、これまでの人類の造船史の流れの結果として生み出されました。
そして、フレームを核として造船を行うことによって、はじめて「船の形をデザインする」という考えが誕生したのです。スケルトン・ベース・コンストラクションでは、先ずフレームがキールの上に立てられ、そのフレームに外板直接張り付けいられていきます。つまりフレームの形がそのまま船の形になるのです。この工法で船を造ることにより、船大工たちは必然的に予め船の形を計算して、材木を切り出すようになりました。これが現在まで続く、私たちの知る現代の木造船の始まりです。
もちろん、水中考古学が登場するまでは、私たちはこのような人類の造船史について全く知識がありませんでした。 水中考古学、特に船舶考古学の研究の積み重ねによって船の歴史が明らかになってきたのです。そして1973年にこの「現代の船舶の始祖」ともいえる最初のスケルトン・ベース・コンストラクションの沈没船が発見されました。
ここでは最初のスケルトン・ベース・コンストラクションの船「サーチェ・リマーニ沈没船」を一緒に見ていきましょう。
最初のスケルトン・ベース・コンストラクション船「サーチェ・リマーニ沈没船(西暦1025年頃)」


1973年、トルコの南海岸で新たに沈没船が発見されました。水深33メートルの海底で発見されたこの船は、ジョージ・バス博士率いるテキサス農工大学の考古学チームによって1977年から1979年にかけて発掘され、その後の研究により1025年頃に沈んだ中世東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の船であったことが判りました。

船体の残存部分


沈没船の発掘が進むと船体の木材が現れてきました。このサーチェ・リマーニ沈没船では船体の25%程が残っていました。船体木材はまず海底で記録されてから個別に引き上げられ、陸上でさらに綿密に記録作業が行なわれました。その後、3年間かけて保存処理が行われました。
1:10サイズのフラグメントモデル
船体木材の保存処理が始まると、それまでに記録された情報をもとに1:10サイズの海底遺跡のジオラマ(上の図)が先ず作られました。その後にフラグメントモデル(下の図)という船体の残存部分を建造当時の形の位置にもどして固定したモデルが研究の一部としてつくられました。

船体のセクションの復元と考察

上の図が発掘された船体をもとに復元されたサーチェ・リマーニ沈没船のセクション(断面)復元図です。これらからサーチェ・リマーニ沈没船は①平たい底部を持っていた、②鋭く曲がるターン・オブ・ザ・ビルジ(船底部が上部に向かって湾曲する位置)を持っていた、③まっすぐに伸びる(ストレートな)船体側面を持っていた、④キール(竜骨)は小さかった(このことから操縦性能はあまり良くなかった船であったことが判ります)、⑤大きなキールソン(内竜骨)を持っていた、⑥喫水が長くなかった(船体で水面下になる部分が少なかった)などのことが判りました。

さらに重要なことは、サーチェ・リマーニ沈没船の外板部分にはモーティス・アンド・テノン接合のような外板同士を接合した痕跡はなく、全ての外板がフレームに直接留められていたということです。このことからフレームが外板部よりも先に組み立てられていたことが判りました。すなわち「スケルトン・ベース・コンストラクション」の船だったのです。
リチャード・ステッフィー教授と彼の研究チームがこの沈没船の研究を進めていくと、どの様にこの船がデザインされていたかまで明らかになってきたのです。
数学的にデザインされた船
ステッフィー教授のチームが発掘された船体の残存部分の研究を進めると、この船が「数学的」にデザインされた船であることが判ってきました。これまでみてきたシェル・ベース・コンストラクションの船では、最初に外板部が組み立てられ、その形に合わせてフレームが切り出され、取り付けられていました。一方このサーチェ・リマーニ沈没船では、最初にいくつかのフレームが外板部よりも先にキールに立てられ、そこに外板が取り付けられていたのです。そしてこのフレームもある一定のルールに従って切り出されていました。
サーチェ・リマーニ沈没船の建造工程について詳しく見ていきましょう。


最初に、キール(竜骨)とステム(船首材)とスターンポスト(船尾材)が立てられます。そこにフレームを2つ取り付けます。この2つのフレームは1つがキールの全長の中間部に、そしてもう1つを当時の東ローマ帝国(ビザンティン帝国)で使われていた長さの単位の1ビザンティンフィート(31.2㎝)前方に取り付けます。


このフレームは①Lシェープのフロアティンバー、②真っ直ぐで短いフトック、そそて③長いLシェープのフトックの3つの木材を組み合わせで出来ています。

上の図はミッドシップ・フレーム(船体で一番幅の広い部分のフレーム、船体を形作る核となります。)のセクション図です。フレームのターン・オブ・ザ・ビルジ (Turn of the bilge) といわれる湾曲部が水平より少し高くなっているのがわかります。この少し高くなった部分をデッドライズ (Dead rise) と呼びます。サーチェ・リマーニ沈没船ではミッドシップ・フレームのデッドライズがちょうど1/8ビザンティンフィートでした。


二つのミッドシップ・フレームが立った後で、ミッドシップ・フレームの4ビザンティンフィート前と後ろにそれぞれ1つずつフロアティンバーが取り付けられました。この前後二つのフロアティンバーはデッドライズがさらに1/16ビザンティンフィート増えており、さらに内側に1/16ビザンティンフィート入り込んでいます。このフロアティンバー(及びフレーム)が内側に入り込み、長さ(船の幅)が短くなることをナロウイング (narrowing) といいます。その後2つのミッドシップ・フレームと4ビザンティンフィート前後に取り付けられたフロアティンバーの間にそれぞれ3つずつフロアティンバーを取り付けます。こうして船の中央部に10のフレームが立ちました。

次に、最初に立てられた中央部の10個のフレームの両端からさらに8ビザンティンフィート前後にさらにテイルフレーム (Tail-frame) とよばれる船体のを形作るのに重要なフレームが立てられました。船首側のテイルフレームはさらに1/2ビザンティンフィートのデッドライズとナロウイングが施され、船尾側のテイルフレームには3/4ビザンティンフィートのデッドライズと1ビザンティンフィートのナロウイングが施されました。このことから、船首が船尾よりも太くなるようにデザインされていたことが判ります。
このように、船体中央部と船首(ステム)と船尾(スターンポスト)、およびその中間のフレーム(テイルフレーム)と数学的にデザインされた骨組み(フレーム、またはスケルトン)を先に組み立て、そこに外板を張り付けていくことによってサーチェ・リマーニ沈没船は造られました。
私たちが知る中で、ビザンティンフィートという長さの単位を活用しながら、一定の規則に従って(数学的に)造られた最初の船なのです。

サーチェ・リマーニ沈没船のリッギング(艤装)

また、サーチェ・リマーニ沈没船から船のリッギング(rigging: 艤装)に使われる滑車 (Block) が4個発掘されました。リッギングとはマストや帆、そしてそれを操るロープなどを含めた船の推進力と操縦をつかさどる部位の総称です。滑車は帆や帆が付けられているヤード(帆桁:ほげた)といわれる横棒を甲板から操作するロープに備え付けられています。風を受けた帆の操作やヤードを上げ下げするには強い力で引っ張る必要があり、それを補助するために古くから滑車が使われていました。
サーチェ・リマーニ沈没船では3つのシーブ (sheaves: 滑車内部の綱車) を内蔵した滑車が前後から2つずつ発見されました。この滑車はヤードを上げるために使われていたと考えられ、このことから船には2つのマストが立っていたと考えられます。さらに帆が風を受けた際の支点とバランスなどから推察して、サーチェ・リマーニ沈没船は2つのラティーンセイル(三角帆)を備えた船であったと考えられています。


積み荷

サーチェ・リマーニ沈没船からも膨大な数と量の積荷が発掘されました。ここで全てを紹介することは叶いませんが、その一部を見ていきましょう。
ガラスの破片と器

サーチェ・リマーニ沈没船は「ガラスレック (Glass Wreck)」とも呼ばれ、3トンものガラスが発掘されました。そのうち2トンは精製用のガラスの塊りで、あとの1トンはガラス片でした。これらは溶かして新たなガラス製品を作る材料として運ばれていました。また約80点ほどの壊されていない、商品として運ばれていたであろうガラス製の器も見つかっています。
イスラム教圏ファティーマ朝の装飾品


ファティーマ朝で西暦1000年~1009年の間につくられた金貨が3枚と金貨の欠片が発掘されました。さらに黄金製のファティーマ朝のイヤリングも発見されています。
船員の所有物



船員のものと思われるハサミや櫛、個人の所有物をしまっていた箱の南京錠とその鍵、暇つぶしに使っていたと思われるチェスの駒などが見つかっています。
その他

その他にも、40枚のビザンティン帝国の銅貨、ファティーマ朝の天秤計り用の重り、ビザンティン帝国の天秤ばかり用の重り、ビザンティン帝国の天秤計り、銀製の指輪、60本の投てき用の槍、ビザンティン帝国製の剣、船大工の道具各種、900個以上の錫製の釣り網用の重り、木の皮製の釣り網用の重り、釣り用の銛、魚の骨、豚の骨、89個のビザンティン帝国製のアンフォラ、ビザンティン帝国製の皿や甕(かめ)などの各種陶器、ファティーマ朝製の皿(44枚)、ファティーマ朝製のオイルランプ、染料、石臼、様々なフルーツの種。などが発掘されました。バラスト(船のバランスをとるための石の重り)も3トン見つかってます。
サーチェ・リマーニ沈没船の母港

最後にサーチェ・リマーニ沈没船は何処からきた船であったか考察をしていきましょう。
時代背景として、中世地中海はキリスト教とイスラム教との対立の時代でした。西暦780年から西暦1180年の間に断続的にキリスト教のローマ帝国とイスラム教のアラブ朝の間で戦争が起こっていました。サーチェ・リマーニ沈没船が沈んだ11世紀頃もキリスト教のビザンティン帝国とイスラム教のファティーマ朝が地中海の南北に分かれて領土争いをしていました。
サーチェ・リマーニ沈没船からは、イスラム教ファティーマ朝でつくられた商品がいくつも積まれていました。しかしながら、釣り網用の重りはビザンティン帝国で使われていたもので、船員たちがイスラム教で禁忌とされていた豚を食べていたこともわかっています。何よりもサーチェ・リマーニ沈没船自体がビザンティン帝国圏で造られた船であったことが判っています。
商取引時に使用された天秤計り用の重りの発掘品がビザンティン帝国圏とファティーマ朝の両方のものがあったことから、この船はビザンティン帝国とファティーマ朝を往来しながら商品の売買をしていたビザンティン帝国圏の商船であったと考えられています。

まとめ
前章までに見てきた船の外板同士の接合(モーティス・アンド・テノン接合)が完全に姿を消し、サーチェ・リマーニ沈没船では、はじめにデザインされたフレームを組み立て、そこに外板を張り付ける建造工法が採られていました。このフレームが造船の工程の核となる建造方法は「スケルトン・ベース・コンストラクション」と称され、サーチェ・リマーニ沈没船の時代から現代の木造船まで続いているのです。
スケルトン・ベース・コンストラクションの最大の利点は、フレームの形がそのまま船体の形になることです。それにより船大工たちは数学的にデザインしたフレームを切り出し組み立て、「流線形」の船を造り出していきます。この流れは中世後期、現在のイタリアの「ベネチア」や「ジェノバ」など、地中海沿岸においてヨーロッパ大陸の玄関口となっていた海洋都市に引き継がれていきます。
その後、イタリアで興ったルネサンスの初期に、船のデザインが幾何級数的に進化していき、ルネサンスとともにイベリア半島(スペインとポルトガル)に伝わりました。さらにポルトガルとスペインの船大工によって北欧の船との造船技術の融合がなされ「大航海時代の船」が誕生することになるのです。
その原点ともよぶべきが「サーチェ・リマーニ沈没船」なのです。
ここで銘記しておきたいのが、ジョージ・バス博士とリチャード・ステッフィー教授を中心にした考古学者達による、綿密で正確な水中発掘とその後の研究の意義です。
彼らが水中で発見したものを事細かに記録し、保存処理を行い、分析研究を行うことを通して、その沈没船がどの様にデザインされたかまでも明らかにすることが出来たのです。
ジョージ・バス博士は高齢のために引退され、リチャード・ステッフィー教授も2007年に他界されました。その他の「第一世代」と呼ばれる、今日の船舶考古学を礎を築いた伝説の考古学者達も徐々に第一線を退いています。
私たち次の世代は、彼らの第一世代の遺産を引き継ぐために、彼らの残したものを学び尽くし、さらに前進させなければならないのです。そのためにもより多くの人々に「船の考古学」に興味を持ってもらい、水中考古学者を目指す人材を見出して供に研究していきたいのです。
ここで、地中海のおける船の考古学の旅を終わることにします。なお、先にも述べたように、15世紀末に西洋世界と東洋世界を繋ぐことになる「大航海時代」の船が誕生するには地中海の船に関する知見だけでは不十分なでした。
大航海時代の船は、古代エジプト文明・ギリシャ文明・ローマ文明の建造技術を継承して進化した地中海の船と、バイキング船として知られる北欧の船が融合することにより産み出されたものでした。
そこでここからは、もう一つのヨーロッパ世界「北欧」の船を見ていくことにします。
と、その前に、ここでちょっとした小休止を取り、これまで見てきた古代と中世の地中海の「錨の考古学」を見てみましょう。
小休止「錨の考古学」
<参考文献>
BASS, G. F., Matthews, S., Steffy, J. R., and van Doorninck, F. H., (2004). Serçe Limanı: an eleventh-century shipwreck. Volume 1. College Station, TX, Texas A & M University Press.
BASS, G. F. (2005). Beneath the Seven Seas: Adventures with the Institute of Nautical Archaeology. New York, Thames & Hudson.
STEFFY, J. R. (1994). Wooden ship building and the interpretation of shipwrecks. College Station, Texas A & M University Press.