
ヴァイキング時代
一般的にヴァイキング時代とは8世紀末から11世紀の中頃までの約250年間をさし、その時代に現在のノルウェーとスウェーデンのあるスカンジナビア半島、デンマークのあるユトランド半島の沿岸地域に住んでいた人々をヴァイキングと呼んでいます。彼らは西ヨーロッパ諸国沿岸地帯への侵略行為が有名で、どうしても海賊なようなイメージを想像してしまいがちですが、実は彼らは農業や漁業を生業とした農耕民族であり、また同時に他国との貿易などの通商産業を主として行う民族でした。
俗にいう暗黒時代を迎えていた地中海沿岸の南ヨーロッパ諸国に対し、ヴァイキング時代を迎えた北欧のヴァイキング達は卓越した造船技術をもち、そのクリンカービルドの船を用い活発に貿易と侵略行為を行い、彼らの航路は北欧だけには留まらず、西はカスピ海・南は地中海・そして東は現在のカナダ北東沿岸部にまで至ったと考えられています。
スウェーデンのヴァイキング達は現在の東欧とロシアの川を遡り、黒海とカスピ海まで沿岸地域での交易を行っていました。ノルウェーのヴァイキング達はスコットランドの島々、イギリス西部の一部、アイスランドやグリーンランドを占領し、カナダ北西部までその航路を伸ばしていました。デンマークのバイキングたちイギリス東部やフランス北部沿岸の一部を占領し、地中海まで航海して交易を行っていました。これらの航海は荒い北の海を越えて行われ、当時使われていたヴァイキング船は現在でも北欧諸国の人々にとっては誇りの象徴であり(私がデンマークを訪ねた時の感覚では、街中のいたるところにヴァイキング船を象ったマークがあり、彼らにとってのヴァイキング船は、日本人にとっての日本刀のように、その文化と歴史を象徴するとても重要なものであるのだと感じました。)、発掘されたヴァイキング船はその国の考古学者たちのよって丁寧に発掘され、研究が行われてきました。この章からはいよいよそのヴァイキング船を紹介していきます。まずは1905年に発掘されたノルウェーのオセバーグ船を見ていきましょう。
オセバーグ船(西暦815年~820年頃)

オセバーグ船はノルウェーの首都オスロの近郊で発掘されました。オセバーグ船が作られたのは815年から820年頃と考えられており、現在までに発掘されたヴァイキング船のなかでは最も初期のものの一つと考えられています。このオセバーグ船も船葬墓としてヴァイキングの豪族とともに埋めらました。現在は発掘と保存処理がおわり、オスロにあるヴァイキング船博物館に展示されています。
オセバーグ船は全長が21.4m、最大幅が5.2m、全長と幅の比率が4.1:1と帆走に適した形をしていました。

オセバーグ船は所々に美しく彫られた装飾が施されており、それらのスタイルや年輪年代測定法から815年から820年の間に作られた船であることがわかっています。その後、船として運用され、834年頃に船葬墓として豪族の遺体と一緒に埋められました。(この時一緒に埋められた埋葬品の年代測定からこの船葬墓が834年頃のものであるとわかりました。)
クウォーター・ラダー

オセバーグ船もクヴァルスンド船と同じく、船の右舷後方に舵が取り付けられていました。舵の上部には水平の取っ手(ティラー)が備え付けられており、舵本体は船から飛び出た円錐型のブロックに結び付けられていました。
Karv (カーブ)
オセバーグ船はカーブと呼ばれる近海で運用された「ハイランクの要人を運ぶために使われた船」であると考えられています。この船に前の章で見たサトン・フー船やクヴァルスンド船にあったような船の梁と一体となった漕ぎ座は無く、船が櫂走(オールで漕いでの運用)をされていた時は、大型の道具箱(Chest)などの後付けの漕ぎ座を使用していたと考えられています。


外板は竜骨(キール)を中心に片側に12列ずつあり、喫水の深いV字型の構造をしていました。ここからオセバーグ船は明らかに航海に適した船としてつくられたデザインの船であったことがわかります。さらにこのV字型の船体は波の作用で起こるホッギングとサッギングの作用を軽減する働きもありました。

また前述したように全長と船幅の4:1という比率は帆走に適していました。しかしながらオセバーグ船には片面に15のオールを通す穴が備わっており、帆走を主としながらも櫂走能力も備えた船でした。
マストステップ(カーリング:Carling)


オセバーグ船には船の中央部から少し前方にスクエアセイル(Square sail: 横帆)のためのマストステップが備え付けられていました。オセバーグ船のマストステップはフレーム(助骨)2つにしかまたがっておらず、船体には大きな負荷がかかっていたのではないかと考えられています。それを軽減するためにデッキレベル(甲板)にはマストを支えるための重厚な支えがありました。ヴァイキングはこのマストパートナーと呼ばれる構造をその形から「フォーク」とよんでいました。このフォークは(ビーム)梁の4つ分にまたがり、帆走時の帆の受ける風の力をうまく船体に分散しながら効率的に力を伝えていました。またこのフォーク(マストステップ)はその一部を取り外して、櫂走時などにマストを下せるような構造になっていました。
ビーム(梁、ビティ:Biti)とメガフーファー(Meginhufr)

オセバーグ船を含めたヴァイキング船において「梁」はビティ(単数形:Biti、複数形:Bitar)と呼ばれていました。このビティ(梁)の下方ではフレーム(助骨)は外板のクリートに紐で結び付けられていました。これはネイダン船やクヴァルスンド船にもみられた船体構造で、ヴァイキング船も梁よりも下部はクリートと紐で、梁の上方は木釘で外板とフレームが留められていました。
ビティ(梁)の高さ位置する外板は上方が外に飛び出た特別強靭な造りになっていました。この梁の高さに位置し他の外板よりも厚い造りになっていた外板を「メガフーファー:Meginhufr」といいます。またビティ(梁)の上部にはスタンディング・ニーと呼ばれる曲がった強靭な木材が備え付けられており、これがビティ(梁)よりも上部の外板を支えていました。オセバーグ船では、外板がメガフーファーの下方に9列、上方に2列、メガフーファー自体も1列の外板列なので、片側に計12列の外板から船が組み立てられていました。

スタンディング・ニーはビティ(梁)に木釘でしっかりと留められており、甲板を構成する板はビティ(梁)の間にはめ込まれており、そのほとんどが常駐的にビティ(梁)に留めつけられていました。これは甲板脱着可能ではないことを示し、ここから甲板下のスペースは貨物を輸送するために使われていなかったことがわかります。もしオセバーグ船が貨物輸送のために使われていた輸送船であったならば、甲板板は取り外し可能で、甲板下のスペースを有効に利用できるような構造になっていたと考えるのが普通です。これらの要因からオセバーグ船は主に人を運ぶための連絡船(レジャーボート)、つまりカーブであったと考えられています。
まとめ
ここではヴァイキング時代(800年頃~1050年)初期の船であるノルウェーのオセバーグ船を見てきました。ヴァイキング船(北欧船)特有の美しいラップストレーク外板の外見と、北海の厳しい天候の海を航海するため機能美が見て取れたと思います。オセバーグ船はおそらく815年から820年頃に建造された船であると考えられています。この時期からさらにヴァイキングはその造船技術を加速度的に進化させていくことになります。次の章では同じくノルウェーのオスロ近郊から発見されたヴァイキング船の最高傑作ともいえる遺跡、ゴックスタッド船を一緒に見ていきましょう。
<北欧ヴァイキング船の最高傑作、ゴックスタッド船(西暦850年頃)>
<参考文献>
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