ミクロネシア連邦 (2019)

ミクロネシア連邦・UNESCO水中考古学フィールドスクール
プロジェクト・リーダー:ビル・ジェフリー博士

チューク諸島・戦争遺跡保護のためのフォトグラアメトリ水中考古学フィールドスクール
プロジェクト・リーダー:山舩 晃太郎(船舶考古学博士)

場所:ミクロネシア連邦、チューク諸島

   

私がこの美しい太平洋の環礁「チューク諸島」に初めて来たのは2019年7月のことでした。目的は、UNESCOとミクロネシア政府からの要請で、ミクロネシア連邦の文化財保護局(日本でいう埋蔵文化財課)の職員たちに水中考古学の基礎と方法論を教えるためでした。

チューク諸島を擁するミクロネシア連邦は2018年にユネスコの水中文化遺産保護条例に批准し、2019年から本格的に各地域の水中に眠る様々な文化遺産の研究と保護に国を挙げて乗り出したました。

しかしながら、ミクロネシア連邦ではまだ水中文化遺産の研究と保護を行うだけの経験がなく、それらの知識と技術を育てるため、2019年の夏にミクロネシア連邦の各州から若い職員がチューク諸島に集められ、外国から講師を招集して水中考古学フィールドスクールが行われることになりました。

そのフィールドスクールの責任者に選ばれたのが、長年太平洋の各地域で研究と実績のある、現在はグアム大学で教鞭をとっているビル・ジェフリー教授で、世界各国の現場での調査経験が豊富な私も講師として招集されました。とはいっても私も2019年は忙しく、なかなか時間が取れなかったので、3週間のフィールドスクールの最初の10日間をジェフリー教授が教え、私は後半の10日間を受け持つという分業制でした。(つまり私は遅刻しました。そしてこの仕事の為にマルタ大学でのフィールドスクール講師を早退しました。)

現地の生徒は12人程で、その他にも香港やニュージーランドの水中考古学者もせっかくだからとどさくさに紛れフィールドスクールに参加していました。とてもリラックスした楽しい感じで進んでいきました。

ミクロネシア連邦のチューク諸島は、海が青くて美しい、神奈川県ほどの大きさを持つ(世界第2位の大きさ)環礁内にある島々から構成されています。お世辞にも経済が発展している場所とはいいがたく、舗装されている道路は島の中心の一カ所のみで、あとはボコボコと大きな穴が開いていました。島民の生活はまだまだ物々交換の社会も残っており、一番の人気の職業はタクシー運転手で、それでも月収は2~3万円程だそうです。もちろんこれは島民の平均ではなく、豊かなクラスでそれだけということです。

しかしながら、規模は小さいものの、観光業も存在しており、島内には5カ所ほどの外国人向けのホテルと、7カ所ほどのレストランも在ります。レストランは思いのほか値段が高く、一食10ドル~15ドルぐらいするので、観光客かホテル経営者の家族親戚、そして政府関係者ぐらいしか利用していませんでした。

観光客は主にアメリカやオーストラリア、また欧州各国からの沈船ダイビングを目的にしたダイバーがほとんどでした。日本人観光客も1週間で4~5人見かけたものの、僅かなものでした。昔は(陸上の)戦争遺跡などの訪問を目的とした日本人の遺族の方々も多かったらしいのですが、年々数が減ってきていると現地日本人ガイドの方が言っていました。

チューク諸島をはじめミクロネシアの島々には農業などが出来る土地もなく、島の経済はわずかな漁業と観光業でもっています。そのため、今後の観光業に繋がるかもしれない水中文化遺産の保護にミクロネシア政府も期待しているのです。そのためのUNESCO水中文化遺産保護条例と今回のフィールドスクール開催です。

私はフィールドスクールでは、私がこれまでサイパンやグアムで行っていた戦争文化遺産の経年変化による保護のやり方や、基本的な水中作業や記録作業、そしてフォトグラメトリを使った記憶作業などを教えさせていただきました。

 

現地の文化財職員の方々とも仲良くなれたので、フィールドスクールが終わる直前に、この様な質問をさせていただきました。

「日本の戦争遺跡のことを文化遺産としてどう感じていますか?」

少し歴史の話になるのですが、チューク諸島をはじめ太平洋の多くの島で、戦前は日本人と現地の人達の関係は良好でした。しかし太平洋戦争が激化すると、戦闘の巻き添えになって亡くなった方がいたのはもちろんのこと、直接でなくても日本の軍事施設を建設する為に移住を強いられたり、食料が徴収されて地元の方々の間で飢饉が起こったりと、多大な悪影響がありました。

そのため私の中では、太平洋戦争の日本軍関連の戦跡はミクロネシアの人々の中では「負の遺産」なのではないかという疑問もありました。なので、彼らミクロネシア連邦の文化遺産に関わる職員の皆さんに、水中考古学という学問を教えるうえで、「日本人」としてどうしても彼らの考えを聞いておきたかったのです。

私の予想としては、日本の「原爆ドーム」のように「負の遺産として後世に伝えたい」のか、「観光用の施設として活用していきたい」のか、またはその両方なのかでした。

しかしながら、彼らの返答は意外なものでした。

彼らの認識では、島や島の周辺にある日本軍の戦争遺跡は、彼らにとっては彼らの文化遺産でした。日本より平均寿命の短いチューク諸島には、もう戦争を知っている世代はほとんどいません。しかしながら現在30歳前後の彼らにとっては、戦争を幼い頃体験していたのが、彼らのおじいさんおばあさんでした。太平洋戦争が始まる以前は現地に移住していた日本人と島民との関係は良好で、多くの方々が日本語教育を受け、日本語を話せたそうです。今回フィールドスクールに参加した彼らは、そんなおじいさんおばあさんの話を幼い頃聞いていたのだそうです。戦争のずっと後に生まれた彼らにとって、日本の戦跡遺跡は「彼らの祖父母を思い出させる大切なもの」であり、小さい頃から島にある「遊び場」でもあると教えてくれました。もちろん観光資源としての活用は重要例は理解していましたが、それ以上に「自分たちの文化遺産」の一部としても残していきたいと言ってくれました。


その他にも、この7月の滞在では様々なことを学べました。

先にも述べたように、チューク諸島をはじめ、太平洋に浮かぶ多くの島々は、サイパンやグアムなどを例外にして、とても貧しい地域がほとんどです。彼らにとって水中遺跡は、海外からダイバーなどの観光客を呼び込むための重要な観光資源であるのは確かなのです。

私は遺跡の観光地化に賛成です。「歴史」は地域住民をはじめ、人類全体の財産です。歴史を効率よく皆さんに感じて、知ってもらえるのが「観光」の役割でもあります。実際に遺跡や教会、神社仏閣、そして博物館などは観光客を呼び、私達はこれらを自分の足で訪れ、空気を感じながら歴史を学ぶことが出来ます。

そして観光は産業です。チューク諸島では観光客はホテルに泊まり、レストランで食事します。ホテルやレストランはそこで働く人々の仕事を生みます。これはダイビングセンターも同じです。レストランなどは食材確保のために漁業や輸入業を生みます。直接ホテルやレストランに関係ない島民でも、観光客が増えれば、タクシー運転手や、町の売店、ストリートマーケットまでお金が回るようになります。島民の月給が2~3万円ほどの貧しい地域で観光客の持ってくるお金のおおきさがどれほどか、チューク諸島や太平洋の貧しい島々にとって観光業の重要さが皆さんにもわかるはずです。

そして、島の皆さんが、観光客を島に運んできているというのが(水中)戦争遺跡だと理解が広がっていけば、結果的に戦跡遺跡の保護に積極的になり正のスパイラルが生まれます。島の方々も政府関係者も観光客が増え島が豊かになるのを望んでいます。経済が豊かになれば、教育なども豊かになります。

  

そして、私は、これを積極的に補助していかなければならないのは「日本人」だと思っています。先にも述べたように、日本軍がチューク諸島に駐留したことによって、太平洋戦争中には、軍隊への食糧の徴収が行われ、それにより島では飢饉が発生しました。少なからず日本は彼らに迷惑をかけたのです。

残念なことに、私が現地の文化財関係者の方々と話した限りでは、まだチューク諸島をはじめとした太平洋の島々には「水中文化遺産の保護」を自力で始めるだけの資金や経験がありません。彼らが自分たちの手で「水中文化遺産の保護」を主導し、観光業を活性化するまでのサポートをしなければならないのは欧米人ではなく日本人であるべきだと痛感しました。

   
  

日本人向け「水中戦争遺跡保護のためのフォトグラアメトリ水中考古学フィールドスクール」

そこで、その活動の一端として私が思いついたのが、チューク諸島を舞台にした「フォトグラメトリによる水中文化遺産の保護のための水中考古学フィールドスクール」でした。

すでにスペインで「古代ローマ船水中発掘フィールドスクール」を成功させた経験があったので、それを「水中発掘」ではなく、「フォトグラメトリ」による3Dモデル作成と経年変化測定というテーマに変更して行うというものです。目的は3つありました。

1つ目は日本人ダイバーに遺跡の保護に仕方を教え、フィールドスクール後にもチューク諸島や他の地域に観光に行ったときに経年変化測定のできる精度の3Dモデルをつくってもらうというものです。私は他国でのプロジェクトも多いので、私以外にも作業できる日本人技術者の育成です。

2つ目はフィールドスクールを通じて日本人の皆さんに現地の水中戦争遺跡の現状を知ってもらい、日本国内でこの問題をもっとアピールするというものです。また日本人がこの様な活動を行っているということを知ってもらうことにより、ミクロネシア連邦内での注目度も上がるはずだと考えました。

3つ目はフィールドスクールで得た(わずかな)収益を使い、私自身が実際に地元のダイビングショップを使いデータ保護と経年変化測定のためのデータを自ら作成していくというものです。今回もジェフリー教授とフィールドスクール数日前にチューク諸島に入り3Dモデルの作成を行いました。これも毎回続けていく予定です。

これらの目標を見据えながら、2019年-2020年の年末年始の休暇に8名の日本人が参加者と共に「チューク諸島・水中戦争遺跡保護のためのフォトグラアメトリ水中考古学フィールドスクール」を1週間の日程で開催しました。私自身にとっても2回目の水中考古学フィールドスクールです。(今までも山ほど海外の大学院で授業としてフィールドスクールは教えてきましたが、自分が主催者になるのはスペインのマヨルカ島に引き続き2回目でした。)現地島内での様々なコンタクトや、ミクロネシア政府への手続きなどを円滑に進めるために、太平洋での研究の第一人者のビル・ジェフリー教授にも講師として参加してもらいました。(ジェフリー教授も必要な試みだからとボランティアで来てくれました。大先生になんと恐れ多い!でもジェフリー教授はそのような人柄なのです。私の大好きで尊敬すべき研究者の大先輩の一人です。昔からよく飲みに連れて行ってもらって、色々な事を教えてくれます。公私ともに仲良しな兄貴的存在なんです。)


また、この試みを今回の一回だけで終わらすのではなく、毎年続けて行うためには、とても私一人の力ではできないので、チューク諸島に住む日本人の方々に事前に連絡をとり、フィールドスクールの趣旨と目的を説明しました。ありがたいことに、チューク諸島在住の日本人の皆さんから暖かい全面的なサポートを得ることが出来ました。特に現地に駐在しながら大型の日本水中戦跡(沈没船)から燃料が漏れて環境破壊が起こらないように活動しているJMAS(日本地雷処理を支援する会)の3名の皆様には、フィールドスクール開催期間中は何から何までお世話になりっぱなしでした。

フィールドスクールの内容は私のブログの方に書いてあるので、様子を詳しく知りたい方は是非そちらをご覧ください。

<ブログ「水中考古学者の日常」より>
「ミクロネシア連邦・チューク諸島、水中戦争遺跡保護のためのフォトグラメトリ水中考古学フィールドスクール」が始りました。

  
  

とても楽しい1週間でした。思い出されるのは、参加者の皆さんの勤勉さです。普通に朝から深夜までフォトグラアメトリの訓練を行いました。夕食後は自由参加だったのですが、それでも皆さんは毎日深夜まで、練習と作業をしてくれました。まさに強化合宿。学生時代の部活を思い出した1週間でした(決して私は皆さんに無理強いしていたわけではありません。参加者の皆さんのやる気はすさまじいものでした。私もとても嬉しかったです。)

1週間のフィールドスクールも無事に終了することができました。





しかしながら2回目の現地での活動で、太平洋の水中戦争遺跡の課題がより見えてきました。

前提として、太平洋に沈む太平洋戦争時の水中戦争遺跡は皆さんが考えているよりもずっと深刻です。

海水にも酸素は溶けているので、陸上遺跡ではないですが、水中遺跡でも確実に参加は進んでいます。2002年にビル・ジェフリー教授も参加したオーストラリアとアメリカの共同チームの分析によると2017年に浅い場所にある水中戦跡の劣化が完了(もともとの金属の部位が劣化しきる)遺跡の崩壊が起こり始めるというものでした。現地に住む日本人のダイビングショップ経営をしている方とJMASのダイバーさんの話では、実際に数年前から浅い場所にある水中遺跡から崩壊が始まり、現在進行形で進んでいるということでした。

遺跡の保護は急務で行わなければならない課題なのです。このためにフォトグラメトリ3Dを用いた経年変化を行います。精密な3Dモデルを一定期間ごとに作成し、経年変化を計測できるソフトウェアで実際にどの様な変化が水中遺跡に起きているかを明らかにします。チューク諸島には全長100mを超える大型船籍の沈没船も沢山存在します(チューク諸島には約40の大型船の沈没船が確認されています)。もしこれらの水中遺跡の全体の補強工事を行うとしたら、一隻に何千万~何億の巨大プロジェクトになってしまいます。しかし経年変化測定を行うことによって、ダメージの大きい箇所と少ない部位をピンポイントに割り出し、ダメージの大きい箇所から優先的に部分的な補強を行うことによって、効率よく短期間に低予算で多くの水中戦争遺跡の保護を行えるようになります。そのためのフォトグラメトリによる精密な3Dモデルの作成が必要なのです。

次に戦没者の遺骨の問題があります。現地ダイビングセンターの日本人経営者の方の話では、一部の欧米人ダイバーによって、写真撮影の為に遺骨が動かされているというものでした。もちろんこれは一部の配慮のないダイバーによるもので、ダイビングに来ている観光客の国籍の割合を考えると、ほぼ間違いなく欧米のダイバーによるものです。

ただ欧米人に戦没者を敬う気持ちが無いのかと言ったら、そうではなく、むしろ現在も多くの軍従軍者のいる欧米人のほうが戦没者にたいする敬意を表する傾向はあるのです。ただチューク諸島の日本戦跡の戦争遺跡は、彼らの戦争遺跡ではなく、チューク諸島の沈没船は、彼らにとっては魚の集まる「水中地形」に過ぎないのです。

この問題を解決するために必要なのが、「水中慰霊碑」の設置です。水中遺跡に水中慰霊碑を設置することによって、そこに「戦争で亡くなった方が大勢いる」ことを分かりやすく示します。それによって沈没船は「水中地形」から「墓標」へとその存在価値と意味を変えることが出来、遺骨に対するこのような行動を抑止することが出来ます。水中慰霊碑は実際にサイパン島の水中遺跡などに設置されており、これらの遺跡では水中遺跡に対して敬意が払われているのです。

またこれら「水中慰霊碑設置」の付加的な影響はもちろん、慰霊碑の設置は、日本から遠く離れた地で亡くなった先人たちの鎮魂のためにも必ず行わなければいけないことだというのは説明の必要もありません。

その他の大きな問題には、ダイビングショップや漁師の小型ボートが船を係留させるために錨やロープを沈没船に投げ入れ、それが沈没船に直接ダメージを与えているというものです。これを解決するためには水中遺跡の横にコンクリートブロックを海底に設置した係留ブイを設置する必要があります。それによってダイビングショップのボートや漁師の小型ボートなどは錨やロープなどを直接沈没船につなぎとめることなく安全に係留できます。(一部の人気ダイビングポイントとなっている沈没船には係留ブイは設置されていますが、まだまだ足りません)

しかしながら、コンクリートブロックと係留ブイを設置するためには多額の予算が必要です。そのために、この問題を日本政府とミクロネシア政府に知ってもらわなくてはいけません。

日本政府としては戦争を次の世代に伝え、歴史を学ぶための証人として水中戦争遺跡は守っていかなければいけません。そしてミクロネシア政府も、貴重な観光資源として少しでも長く水中戦争遺跡は保存していきたいはずです。

これらの問題点とは別に考えても、そして何より、太平洋各地に日本軍の戦争遺跡が沢山沈んでいるのだということをもっと沢山の日本人に知ってもらい、休暇に観光のためでもいいので、現地を訪ねてもらいたいのです。「右」も「左」も関係なく、多くの先人たち(私たちの祖父母の親や兄弟です。)は家族(日本人)を守るために命を落としました。私達が現地を訪れることが、そこで亡くなった方々の何よりの慰霊になるはずです。

そしてその行動をつうじて、若い世代はどのような戦争があったのかを知り、それがさらに太平洋のそれぞれの地域の観光業を活性化し、島々を豊かにしていくはずです。


 

それに加え7月に行った現地の遺跡保護局職員へのフィールドスクールの課題も徐々に見えてきました。

当初、フィールドスクールは大成功で、ミクロネシア政府もUNESCOもとても喜んでくれました。ただ課題は、金銭的な問題で現地職員へのフィールドスクールがトレーニングとして一度きりになってしまい、毎年の持続ができなかったのです。今回のフィールドスクールに参加した現地職員の皆さんはUNESCOからの資金でダイビング機材をレンタルし、私達が用意したコンピューターやソフトを使っていました。これは私達日本人や欧米人の感覚ではとても安いものだったのですが、月給が私たち先進国(日本やアメリカ)の10分の1程の現地職員にはとても持続して行えるようなものではなかったのです。彼らはフィールドスクールで学んだ技術を仕事で使って、私に感謝のメッセージと共に成果を送ってくれます。ただ問題は、その為の機材のレンタルを継続できなかったり、彼らの後輩職員に教えるだけの資金力がなかったのです。

例えば、私達、外国人がチューク諸島やその他の貧しい地域に入り、作業の協力や支援をすることは簡単にできるでしょう。しかしこれらは彼らの遺産であり、その土地に住んでいるのは彼らなのです。私は、のちのち彼らがしっかりと外国人の手を借りなくても、自分たちで水中文化遺産の保護と活用ができるようになり、外国人観光客を招待しなければならないと思います。

そのためにはダイビング機材費や実測機材や撮影機材、コンピューターやソフトウェア、渡航費、すべてを包括し、その上、毎年新しい(後輩)職員を招待した、数年間にわたる現地トレーニングが必要であると痛感しました。彼らはとても優秀で新しい技術をどんどん吸収します。必要なのは費用と経験(時間)なのです。例えば毎年1カ月、5年間のフィールドスクールが行えたなら、彼らの水中文化遺産の保護と観光などへ活用などを完璧に習得し、完全に独立して水中文化遺産関連の活動していけます。

そのための資金を集めなければなりません。私はこれも他の国ではなく、是非日本政府と日本人を中心に行っていきたいと考えています。つまり日本と水中戦争遺跡を持つ地域で協力して守っては行かなければならない遺産なのです。

私も本格的にチューク諸島で活動をし始めてまだ1年足らずですが、これからも継続してフィールドスクールや水中戦争遺跡保護のための活動は行っていきます。

私が普段から行っている古代船や大航海時代の沈没船の発掘研究と違い、太平洋戦争時の水中戦跡の保護活動は一人でも多くの皆さんの認知と補助が必要になります。

2020年-2021年の年末年始はコロナの影響でフィールドスクールは出来ませんが、2021-2022年からはまた再開します。

協力よろしくお願いします!

  
  

  
  

  
  


  
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