古代ローマ帝国の船について見ていきましょう。最初はローマ帝国の帝都ローマの海の玄関口であったポルトゥス港と港町オスティア、そしてそこから発見されたレリーフ画とモザイク画に描かれた船から、古代ローマ帝国の船がどのようなものであったかを見ていきます。
ポルトゥス港と港町オスティア(西暦42年~西暦500年頃)

ポルトゥスは古代地中海で建設されたうち最大の人工の港でした。この港は西暦42年、皇帝クラウディウスによって建設されました。海とローマを繋ぐティベレ川の河口に位置するオスティアは既に港町として繁栄はしていましたが、地盤が砂地だったため、大型船が出入りできる広大な港を建設することが困難でした。そのために港の建設に適したポルトゥスに港を造り、港とティベレ川を運河で繋いだのです。ポルティス港が有ることにより大きな商船で運ばれてきた積み荷をこの港で降ろし、そこから小さな船でローマまで荷物を運ぶことが可能となったのです。ポルトゥス港はイタリアにおける帝政ローマ(西ローマ帝国)が西暦486年に消滅するまで約500年間ローマの港として機能し続けたのです。
ポルトゥス港(西暦42年~西暦500年頃)

ポルトゥス港は当時のローマ帝国の技術の粋を集めて建設されました。その一つがポゾラン (Pozzolana) とよばれる水硬化性コンクリートです。ポゾランは紀元前200年頃に古代ローマのナポリで発明されました。そしてその後に古代ローマのコーサ (Cosa) (紀元前100年頃)やローマ帝国の属州だった都市カエサリア・マリティマの港(紀元前21年~紀元前10年、現在のイスラエル)をはじめとする様々な港の建設に使われていました。

ポルトゥス港の建設は、①海底に木槌を打ち込み型枠を造り、そこにポゾラン(コンクリート)を流し込む、②コンクリートで囲い込んだエリア内部 (915m x 915m) の土砂を取り除く、③波止場の先端に灯台を建設する、という手順で行われました。オスティアの灯台は巨大で、53キロメートル離れた場所からも目視できたと記述にあります。(実際には、日中に火を焚いて、その煙で位置を知らせる「煙台」としての役割が大きかったようです。)

ポルトゥス港は2つの港から構成されています。一つは第一期である西暦42年に建設されたクラウディウス・ハーバー (Harbor of Claudius)。もう一つは隣接するように西暦112年に造られた六角形のトラヤヌス・ハーバー (Harbor of Trajan) です。
オスティア(西暦42年~西暦500年頃)
ポルトゥス港で荷揚げされた積み荷は運河を使いティベレ川に入り、そこからオスティアの倉庫かローマに運ばれました。
オスティアは当時から古代地中海最大の都市であったローマ近郊の港町として栄えており多くの人が暮らしていました。オスティアのローマ帝国時代の遺跡からは様々な店の看板のモザイク画が、また、墓地からは墓石に刻まれたレリーフ画などが発見されています。船を描写したものなど、当時の港町ならではの遺物も発掘されています。

牽引船の船長の墓のレリーフ画

ポルトゥス港で牽引船 (tugboat) の船長をしていた人物の墓から、彼が働いていた牽引船を模したと思われる船のレリーフ画が見つかっています。
大きな商船は港の入り口に着くと帆をたたみ、そこからは小さな牽引船によって港内部の所定の位置に誘導されます。このレリーフ画から判ることは、牽引船には6人の漕ぎ手が乗っており、牽引のロープは船尾に付けられていることです。操舵は一本の巨大な舵によって行われています。
ティベレ川の輸送船

上のフレスコ画には、ポルトゥス港で大型の外洋商船(右)からティベレ川の輸送船(左)に荷物を移し替えている様子が描かれています。海上での荷物の受け渡しはタラップ (gang plank 船の乗り降りに使う板) が使われていたことが判ります。この輸送船の船体側面にはオールを通す穴があり、帆走だけでなく、ガレー船のようにオールを使った航行も可能であったと考えられます。
スレクタムの貿易組合 (Shippers of Sullecthum)

オスティアの広場の遺跡から、現在のチュニジア(北アフリカ)の東海岸にあったローマ帝国の属州スレクタムとの貿易を行う貿易船の組合(会社)の看板が発見されました。そこから2種類の商船の様子が見えてきます。これらの貿易船はナビス・オネラリア (Navis Oneraria = (Sail driven) Ships of burden: 輸送帆船) と称されていました。右側のような形状の船をコビタ (Corbita)、左側をポンタ (Ponta) と呼んでいます。
コビタ船 (Corbis = basket: バスケット)(上図の右側)
コビタ船の名前の由来はバスケット(かご)です。船には二本のマストが装備されており、船首から弧を描くように船尾の方が背が高くなっています。前方に突き出したフォアマスト(前方のマスト)にはアーテモン (Artemon) という帆を備えており、船首部分は凸型をしています。
ポンタ船 (Ponta = ocean going: 外洋船)(上図の左側)
ポンタ船の名前の由来は外洋船です。この看板の描写からも、ポンタ船が長距離の貿易に使われていた船であったと考えられます。特徴は船に3本のマスト(フォアマスト(前)、メインマスト(中)、ミゼンマスト(後))が装備されていること、船首にラムのような形をした水切り(break water)が備えられていることです。また船首は凹型になっており、船体側面の形も船尾付近までは比較的平坦です。
トロニア・レリーフ(西暦200年頃)

ポルトゥス港の遺跡から最も詳細に船の姿が描かれたレリーフ画が見つかっています。トロニア・レリーフ (Torlonia Relief) とよばれるこのレリーフ画には2隻のコビタ船が描かれています。

トロニア・レリーフのコビタ船から見て取れる船体構造の特徴としては、①舵のティラー(Tiller: 舵の柄。舵取り手が舵をつかむ部分、舵の上部から横にのびている取っ手)が船尾キャビンの上まで伸びており、舵取り手はキャビンの上から操舵している、⓶ティラーの先にさらに下向きに取っ手 (universal joint: 自在継ぎ手) が付いており、これによって舵の方向転換が簡単に行なえるようになっている、③船尾の先端がアヒルの頭をかたどった装飾になっている、④船尾では乗組員による祭儀が行なわれている(航海の無事を祝って香を焚いている。ウルブルン沈没船から祭儀の道具が見つかっており、古代エジプトの壁画にも同様の祭儀の様子が描かれていることから、航海の終わりに香を焚く祭儀は青銅器時代から地中海で行われていたと考えられます。)
トレニア・レリーフからはリッギング(索具:マストや帆、それとそれらを操るロープなど、帆船の推進力及び操縦をつかさどる部位の総称)についても詳しく見ることが出来ます。まずはメインマストには四角形のメインセイルとその上部に三角形のシパラムセイル (Siparum sail: 古代船にしかみられない特別な帆。現代の船では通常四角形のメインセイルの上部の帆(メイントップセイル)は、四角形(台形)がほとんどです)があります。そして前方のフォアマストにはアーテモン (Artemon) が備わっています。

上の図が考古学者によるコビタ船の復元をイラストにしたものです。船の前方の帆がアーテモンになります。多くのレリーフ画やモザイク画を通して帆にはブレイルセイルが使われていたことを知ることができました。
その他、造船技術上の変化の一つとして、トレニア・レリーフ(西暦200年頃)や下の同時代のローマ船を描いたモザイク画から、船の後部甲板のキャビンが設備として徐々に発達していることが見て取れます。

フォア・アンド・アフト・セイル (Fore-and-aft-sail: 縦帆) の登場
ローマ帝国の船において最も重要な変化の一つが「フォア・アンド・アフト・セイル (縦帆)」の登場です。これまで見てきた古代の船はスクエアセイル (Square sail: 横帆) と呼ばれる、進行方向に対して垂直方面(横向き)に付けられた帆でした。スクエアセイルは後方からの追い風で能力を発揮し、優れた走力を発揮しました。しかしながら向かい風には弱いという難点がありました。それに対しフォア・アンド・アフト・セイルは追い風時にはスクエアセイル程の走力は得れないものの、横風や向かい風に対しとても強く、向かい風に対してもキールによって得られる水平抵抗力を使い、風に逆らってタッキング走法を用いて前進することが出来たのです。


縦帆の一つであるラティーン・セイル (Lateen sail: 三角帆) は、これまで一般的には西暦600年頃にアラブの商人(インド洋)によって発明され、それが地中海に伝わったと考えられていました。しかし最近の研究で既に西暦200年までにはローマ帝国やそれ以前のヘレニズム期のギリシャの船で使われていたことが判ってきたのです。

スプリット・セイル (Sprit sail)
フォア・アンド・アフト・セイルの一つであるスプリット・セイルも西暦200年頃までにはローマとギリシャの船で使われていたと考えられています。スプリット・セイルの特徴の一つとして、そのメインマストが船の前方に取り付けられている点にあります。


ラティーン・セイルやスプリット・セイルなどのフォア・アンド・アフト・セイルは主に沿岸部(近海)航海用の比較的小さな船に使われていたと考えられています。走力よりも操縦性を重視したフォア・アンド・アフト・セイルは、座礁の恐れのある陸地にちかい沿岸部や湾内で最大限の能力を発揮しました。
特にラティーン・セイルはその後大きな船でも使われるようになり、西暦600年頃までにはスクエアセイルにかわって地中海の全ての船で使われるようになりました。中世地中海の船の索具=ラティーン・セイルといわれるまでに一般的なものになっていったのです。(ここでいう中世ヨーロッパとは西暦400年頃(西ローマ帝国の衰退)~1500年頃(ルネサンスの興り))
ローマ商船のガレー船

その他、ローマ海軍で戦艦として使われていたガレー船の他に、商船として使われていたガレー船のモザイク画(西暦200年頃)も発見されています。ローマ帝国の記述によると、高級品や鮮度が重要な生鮮食料品などの高価な積荷の速達便として使われていました。上のモザイク画のマストと索具のロープからわかるように、このガレー船は帆走とオールによる走行を併用していました。この船は帆走が困難な川などでも運用されていました。
まとめ
ローマ帝国のレリーフ画やモザイク画から、この時代に様々な種類の商船や帆などの索具が使われていたことが判りました。また港の遺跡などから、ローマ帝国において海上貿易が重要な国策事業であったことが見えてきました。
次は巨大商船「マドラグー・デ・ジアンズ」沈没船(紀元前50年頃)の水中遺跡によって古代ローマ帝国の造船技術について見ていきましょう。
<古代ローマ帝国の巨大商船、マドラグー・デ・ジアンズ沈没船(紀元前50年頃)>
<参考文献>
BASS, G. F. (1974). A History of Seafaring Based on Underwater Archaeology. London, Book Club Associates.
MORRISON, J. S. (1995). The age of the galley: Mediterranean oared vessels since pre-classical times. London, Conway Maritime.
THROCKMORTON, P. (1987). The Sea Remembers: From Homer’s Greece to the Rediscovery of the Titanic. London, Bounty Books.