大航海時代の幕開けと、冒険者たちのイベリア船 (1420年頃~1600年頃)

ここからいよいよ「大航海時代」の船について紹介していきたいと思います。前半は大航海時代を開いた国「ポルトガル」について、このヨーロッパ最西端の小国がどの様に世界の海へ乗り出していったのか、その歴史的背景をまとめていきます。

後半は大航海時代の船にみれらる11の特徴を紹介していきます。この大航海時代初期にその覇者となったポルトガルとスペイン、この2つの国がヨーロッパ最西部のイベリア半島にあり、大航海時代前半から中盤にかけて(15世紀中盤~16世紀末)とても似た造船技術を擁していたため、この大航海時代に活躍したこの2つの国の船をまとめて私たち船舶考古学者達は「イベリア船(Iberian Ships)」と呼んでいます。

  

大航海時代の意義

大航海時代とはいったい私たち人類にとってどのような時代だったのでしょうか?

まずポルトガルが15世紀にアフリカ大陸を周回しアジアに辿り着き、アジアとヨーロッパを海路で繋ぐ貿易を開拓し莫大な富を得ました。

そしてスペインは15世紀末に「新大陸」、つまりアメリカ大陸を発見しアステカ文明とインカ帝国を滅ぼし、そこにあった莫大な財宝を略奪しました。

もちろんヨーロッパの人々は以前から中国の文明と「アジア」の国々についてはその存在は知っていました。しかしながら彼らにとって「アジア」は遥か彼方にあるミステリアスな場所でした。

そして彼らヨーロッパ人にとって、彼らの住むヨーロッパから西回りにアジアに辿り着こうと大西洋を渡った先に、「アメリカ大陸」という巨大な陸地が存在したとは誰も想像していなかったのです。

つまり大航海時代とは、人類史上初めて地球上の「ヨーロッパ」「アフリカ」「アジア」そして「アメリカ」に存在した様々な文明と文化が、直接繋がることになった時代だったのです。

大航海時代の夜明け

大航海時代の火種は既に14世紀初頭に灯り始めました。マルコ・ポーロや他の冒険家の記述によって、豊かでミステリアスなアジアの文明と文化が中世後期のヨーロッパに知れ渡りました。14世紀後半になるとオスマン帝国がモンゴル帝国を打ち破り、イスラム教の商人たちが東西を繋ぐ貿易を自由に取り仕切るようになりました。

こうして中世後期の地中海とインド洋ではイスラム教が黄金時代を迎えました。中世後期のイスラム教世界では「学問」が盛んになり、様々な古代ギリシャや古代ローマ時代の学問と知識が復活することとなりました。 天文学や数学、さらには医学や哲学、そしてその他のアラブ世界で再興した古代ギリシャや古代ローマの知識は中世中期から後期にかけて地中海世界で繁栄したイスラム教帝国とそのイスラム教徒たちを通じ、西側のヨーロッパ世界も逆輸入されていきました。

13世紀頃のイスラミック・アストロラーベ。アストロラーベは自分の緯度や時間を図ることのできる天文学を基にした古代のコンピューターで、その機能は航海術に活用されました。この機械は古代ギリシャで発明され、中世イスラム教国家で洗練され、その後中世後期のヨーロッパ人に伝わりました。(Photo by the Author at Qatar Islamic Art Museum)

特に天文学と数学は、この後に起こった大航海時代においてヨーロッパ人船乗りたちの「航海術」の基礎となる重要な知識でした。

しかし、このイスラム教帝国の台頭がキリスト教を信奉するヨーロッパ人の間でイスラム教徒たちへの強い敵意となり徐々に広まっていったのです。中世後期ヨーロッパで何度も起きた十字軍の遠征は、ヨーロッパ世界からイスラム教を排斥し、再びヨーロッパ(つまり地上に)にキリスト教を復興しようという大きな流れだったのです。

中世後期、イスラム教に対するキリスト教の勢いが増すなか、ヨーロッパの最西端に位置したポルトガルが東方ではなく「南方」の航路にキリスト教の復興と、更なる国益と繁栄を求めたのは自然の流れでした。ポルトガルは1250年頃までに既に「レコンキスタ」(Reconqiusta) と呼ばれる(ポルトガル国内での)イスラム教勢力の排斥が完了していました。その後「キリスト教勢力の拡大」と「貿易と新資源発見による国の繁栄」という二つの目的を持ち、 ジブラルタル海峡を挟んでアフリカ北岸にあるセウタを攻略し、これをきっかけにアフリカ大陸の北西部から西海岸を南に向けて南下していきました。このセウタ攻略が1415年でした。当時のヨーロッパ人にとってもまたアフリカ大陸の南部は未知の領域でした。まさにポルトガル人にとって当時のアフリカ西海岸の南下は未開の土地への航海だったのです。

エンリケ王子の肖像画(Image from Wikipedia: https://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Henry_the_Navigator)

この「キリスト教勢力の拡大」と「貿易と新資源発見による国の繁栄」はポルトガルというヨーロッパの小国にとっては一大事業でした。そこでこの大事業の責任者として任命されたのがポルトガル王ジョアン1世の三男だったエンリケ王子 (Prince Henry)(1394‐1460)でした。1420年、当時26歳であったエンリケ王子はキリスト騎士団の総督(指導者)に任命され、ポルトガルの、つまりヨーロッパキリスト教のアフリカ大陸西部の南下の最前線を推し進めていきました。これが大航海時代の始まりだったのです。エンリケ王子はこれらの功績から19世紀以降は「航海者」(the Navigator)というあだ名で呼ばれ、「大航海時代の父」とも呼ばれています。

1460年のエンリケ王子の死後もポルトガルは国策としてのアフリカ西海岸の南下を進めていきました。1473年には後に黄金海岸とも呼ばれるギニア湾を通り、赤道を突破しました。そして1484年についにポルトガル艦隊は総督バーソロミュー・ディアスの指揮のもとアフリカ最南端の喜望峰に辿り着きました。

ポルトガルがアフリカ北岸にあるセウタを攻略した1415年から、このアフリカ最南端に辿り着いた1484年までが大航海時代の第一章とされています。

  

ヴァスコ・ダ・ガマの肖像画。(Image from Wikipedia: https://en.wikipedia.org/wiki/Vasco_da_Gama)

ポルトガルによる大航海時代の第二章の幕開けとなったのがヴァスコ・ダ・ガマによる航海でした。1487年のディアスの功績により、ポルトガルは地中海を通らずとも海路によってアジアに辿り着けることを知りました。これによりポルトガルの目的は東方へ向かい、莫大な利益を生むヨーロッパ – アジア間の直通貿易を開拓することになりました。そして1497年、ガマが喜望峰をまわりインド洋を縦断し、インドのカルカッタに辿り着きました。この航海でガマはアジアの豊潤な胡椒をはじめとするスパイス、黄金や貴金属、絹製品などをポルトガルに持ち帰ることに成功しました。このアジアとの交易はポルトガルに30倍もの純利益を生み出しました(ヨーロッパからの輸出品に対してアジアからの輸入品は30倍の価値になりました)

そしてこのヨーロッパ – アジア間の貿易の可能性を体験したポルトガルは「武力」をもって1510年にインドのゴアを、1511年にマラッカ(海峡)を征服しました。続いて1513年に中国に辿り着き、その後もインド洋と東南アジア諸国に貿易と航海の拠点をつくり、ついに1543年にマルコポーロが書き示した中国東方の伝説の国「ジパング」(日本)につきました。

日本人にとってはポルトガル人が初めてみる白人(ヨーロッパ人)であり、「鉄砲」や「キリスト教」など、日本の歴史に多大な影響を与える技術や文化が紹介されることになりました。私たちが知る「鉄砲伝来」や「キリシタンやイエズス会」などはまさに大航海時代によってもたらされた出来事だったのです。

大航海時代の船

では大航海時代の船とは船とはどのようなものだったのでしょうか?15世紀に入り、大航海時代初期に用いられた船は「キャラベル」という地中海で使われていた船でした。これは中世地中海の船で見たサーチェ・リマーニ沈没船のようなカーバルビルトのデザイン船で、前章で見た中世北欧のラップストレークの船とは異なった外観をしていました。また中世後期には船体も徐々に巨大化していき、中にはマストが3本もあった船の描写が当時の文献資料や絵画の中に見て取れます。中でも重要なのは地中海の船は三角帆(Lateen sails)を使用しており、逆風でも帆走できる優れた操縦性を持った船でした。

中世後期である14世紀から15世紀中盤まで地中海で使用されていた一般的なキャラベル船(Image from: https://premiershipmodels.com.au/product/caravel-model-ship-premier-range/)

ここで改めて中世後期の地中海と北欧の船を簡潔に比べてみましょう

地中海(中世後期)

  • カーバル・ビルトのデザイン船(スケルトンファーストコンストラクション船)
  • 三角帆(Lateen sail)で複数のマスト保有あり
  • クウォーター・ラダー

北欧の船(中世後期)

  • ラップストレークのシャルファーストコンストラクション船
  • 横帆(Square sail)で一本マスト
  • スターンラダー

まず大航海時代の初期は「未開の航路の開拓」がその目的であり、それには優れた操縦性が必要でした。特に赤道付近にはカーム・ベルトと呼ばれる無風地帯があり、操縦性よりも北欧の輸送能力を重視したコッグ船ではアフリカ西岸部を南下するのが困難でした。

しかし15世紀半ばになりアフリカ西海岸での進行が進むと、ポルトガルは徐々にアフリカ大陸西部に住むアラブ商人たちとの貿易を開始しました。豊潤な黄金や象牙などとともに重要視されたのが商品としての黒人奴隷でした。これから何世紀もわたる黒人奴隷貿易もここから始りました。1440年頃にポルトガルの開始した奴隷貿易によって、1500年までに約15万人ものアフリカ人がリスボンを通じヨーロッパ諸国に輸入されました。

ポルトガル航路のフロンティアがさらに南下すると、その一回の航海期間も何カ月を超える長いものとなり、船員たちの食料や大量の水も積まなければならなくなりました。さらにバスコ・ダ・ガマによるヨーロッパ – アジア間の航路を開拓によって、豊潤なアジア商品をより多く輸送するために大きな船が必要となったのです。

キャラベル船は巨大化しやすいカーバルビルトのデザイン船だったのですが、問題はその三角帆にありました。三角帆の操舵方法である「タッキング」はヤード(帆桁)を横に振ることによって行います。この三角帆の傾いたヤードを振るという作業のために船体構造を高くすることが出来なかったのです。一回の航海機関の短い地中海では船の大きさ、つまり「積載量」はこれまで特に問題になりませんでした。しかしながら、大航海時代の「長期航海」と「貿易品の輸送」にはキャラベル船では小さすぎたのです。また1492年にアメリカ大陸を発見したスペインにとっても大西洋を越えての新大陸沿岸での航海にも大きな船を必要としていました。

   

ナウ船(Nau)

1540年頃に描かれたナウ船。(Image from Wikipedia:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Portuguese_Carracks_off_a_Rocky_Coast.jpg)

そこでポルトガルとスペインが開発、投入したのが新型船のナウ船だったのです。ポルトガル語で「ナウ (Nau)」と呼ばれたこの新型船は、スペインではナオ(Nao)、イギリス(英語)ではキャラック(Carrack )と呼ばれています。

この船は地中海のキャラベル船の問題を解決するために、北欧の船の造船技術を組み合わせた、いわば「地中海の船」と「北欧の船」のハイブリッド船だったのです。

中世北欧のコッグ船(上)と中世地中海のキャラベル船(中)と大航海時代の船のナウ船(英語でキャラック船)(下)の比較シルエット図 (Image from: https://www.deviantart.com/jstater/art/Medieval-Ships-168126739I) (llustration Courtesy: jstarter)

ナウ船は地中海のカーバルビルトの船体と複数のマストを持ちつつ、フォアマスト(前方のマスト)とメインマストに北欧船の横帆(スクエアセイル)を備え付け、それによりタッキングによる三角帆のヤード(帆桁)の横振りの問題を解決し、船体を高く巨大化できるようになりました。そして3番目(後ろ)のミゼンマストには操縦性を保つための三角帆を残しました。さらに北欧船のスターンラダー(船尾舵)を装着することにより操縦性を向上させました。(スターンラダーはもっと早い14世紀あたりに地中海に伝わっていたという説もあります)

大航海時代に入り、今までの船よりも「巨大」でありながら「高い操縦性」を持った船が必要となり、その船が北欧の海と地中海の交わる海であったポルトガルとスペインで開発されたのは必然だったのかもしれません。15・16世紀のスペインとポルトガルは同盟関係にあり、その地理的な近さからも多くの造船技術を共有していました。このポルトガルとスペインが位置するヨーロッパ最南端の半島がイベリア半島だったので、大航海時代前期と中期である15世紀・16世紀のポルトガル・スペイン船を総称して私たち船舶考古学者達は「イベリア船」と呼んでいます。(ちなみに私の船舶考古学者としての専門分野もこのイベリア船、つまり大航海時代のポルトガル・スペイン船です。)

イベリア船の11つの特徴

16世紀中盤になると大航海時代も成熟し、より洗練されたナウ船が造られるようになりました。新しい技術が常に開発され、実際に搭載され、ナウ船は名実ともに大航海時代を代表する船となったのです。

カナダ東部のレッド・ベイ(Red Bay)で1565年に沈んだとされるスペイン(バスク地方)の捕鯨船「サン・ホアン号」。写真はその復元模型。

現在までに多くの15世紀後半から16世紀にかけてのナウ船の沈没船が世界各地で発掘されています。それらの発掘と研究から私たち船舶考古学者達はイベリア半島で造られたナウ船に15世紀以前の船にはない「幾つものある特徴」があることを知りました。これらの特徴の多くが15世紀末から16世紀に入り新たに開発されたものであり、逆にこれらの特徴を沈没船水中遺跡で発見することが出来れば、船舶考古学者達はこれが「16世紀のポルトガル・スペイン船」つまり「大航海時代のイベリア船」である可能性が大きいと判断できるのです。

ここではそれら11の特徴について紹介していきます。

  

1. あらかじめ組み立てられた中央部のフレーム(メイドフレーム)とダブテイル(鳩の尾)型のスカーフ。

イベリア船の船体中央部の幾つものフレームはキールに置かれる前に既に組み合わされていました。(Image from: Grenier et. al.)
フロアティンバーとファトック材はダブテイル型のスカーフと水平方向の木釘と金属釘で留められていました。(Image from: Hocker and Ward, 2004) (Illustration Courtesy: Oertling)

16世紀のスペイン・ポルトガル船は「造船前にあらかじめ設計された」カーバルビルトのデザイン船でした。特に中央部のフレーム構造となるフロアティンバー(一番下のフレーム材)とファトック(フロアティンバーに接続されている下から2番目のフレーム材)はキール(竜骨)上に設置される以前にあらかじめ組み立てられていました。またこのフロアティンバーとファトックはダブテイル(鳩の尾)の形をしたスカーフで組み合わされており、水平方向の「木釘」と「金属の釘」をによって留められていました。

2. 外板をフレームに留めるのに「木釘」と「金属の釘」を使用。木釘はジグザグに、金属の釘はフレームのセンターラインにくるように留められていた。

小さな金属の釘がフレームのセンターラインに、大きな木釘がフレームの端に来るようにジグザグした位置で使われていました。(Image from: Grenier et. al.)

外板をフレームに留めるのに木釘と金属の釘の両方を使用していました。金属釘は外側から内側のフレームのセンターラインに合うように外板板の端と端に、木釘はフレームのセンターラインを外して交互になるように留められていた。これは直径の大きい木釘を一直線に入れてしまうと、外板や内側のフレームがそれに沿って割れてしまうのを防ぐための配慮でした。

3. キール(竜骨)の最後尾には元から(自然に)曲がった木材を使用し、この木材をスターン・ニーといった。その後方の上部には船尾材を受けるための溝(スカーフ)が彫られていた。

サン・ホアン号のフラグメント・モデル (沈没船遺跡の木材を元の位置に置いた半復元模型)の船体後方船底部。 (Image from: Grenier et. al.)

キールの最後尾は今までの船のような「キールの最後尾に船尾材が縦方向にそのまま乗る」ような構造ではなく、木の曲がった場所から「角度の開いたL字型の木材」を切り出し、それをキールと船尾材の中間部の木材としていました。はじめから曲がった木材を切り出すことにより、船体構造で最もストレスのかかる部分を丈夫なものにしたのです。この開いた(角度の大きい)L字型の木材をスターン・ニーといいます。(Stern Knee)

4. スターン・ニーの上にはデッドウッドと呼ばれる木材がおかれ、これがスターン・ニーと船尾材のつなぎ目を補強した。

1554年にアメリカのテキサス州沖で沈没したスペイン船「サン・エステバン号」沈没船遺跡で発掘された船体後方船底部。(Figure form: Rosloff and Arnold, 1984)

竜骨最後尾に位置するスターン・ニーの上部には「デッドウッド」と呼ばれる木材が置かれました。デッドウッドの役割は①船体最後尾のフレームの位置を高くし、船尾舵に上手く水が流れるような形状にすることと、②スターン・ニーと船尾材のつなぎ目を補強することでした。更にこのデッドウッド上部にはその上のフレーム(Yフレーム)を受けるための溝も彫られていました。

5. デッドウッドの常備にはY字型のフレームがそれぞれ溝に沿って備え付けられていた。

サン・ホアン号のスターンニー、デッドウッド、Yフレームの復元イラスト (Image from: Grenier et. al.)

デッドウッドの上部には船体後部の船型をつくるために背の高いY字型のフレームが備え付けられていました。このYフレームはそれぞれデッドウッド上部に彫られた溝に置かれていました。

6. キールソン(内竜骨)は下部にフレーム位置に合わせた溝が彫られており、フレームに上手くはまるように設置されていた

サン・ホアン号のキールソン(内竜骨)の実測図。 (Image from: Grenier et. al.)

キール(竜骨)の上にはフレームが並んでおり、その上にはキールソン(内竜骨)が備え付けられていました。このキールソン(内竜骨)の下部にはフレーム位置に合わせて溝が彫られており、うまくキールソン下部の溝にフレーム上部がはまるようにされていました。

7. マストステップはキースソンの中央部の拡張した部分で造っている。またその拡張部の一部に穴があり、そこに船の排水のためのポンプが設置されていた。

サン・ホアン号のビルジポンプ(排水ポンプ)の復元イラスト。 (Image from: Grenier et. al.)

イベリア船のマストが乗るマストステップ構造はキールソンの中央部が肥大化したような形で切り出せれており、この拡張部がマストステップとなっていました。またこのマストステップの後方部の一部には穴があけられており、この穴に船に入ってきた水をくみ上げ船外に捨てるためのするための「排水ポンプ」が設置されていました。

8. マストステップは横方向から複数のバットレス (Buttresses)という木材に支えられており、そのバットレスも外端部をストリンガー(縦通材)に支えられていた。

典型的な16世紀のイベリア船の船体中央部の断面を復元した模型。(Image from: Oertling, 1989) (Model and Photo Courtesy: Oertling)

重いマストやヤード(帆桁)を受け止め、さらに風を受けた帆の推進力を効率的に船体に伝えなければいけないマストステップは船体構造の中でも一番ストレスを受ける箇所でした。そのマストの横向きのストレスを受け止め軽減させるためにマストステップはバットレスという三角形の木材で横から支えられていました。さらにこのバットレスの端部をストリンガー(縦通材)によって支えてれていました。このバットレスとストリンガーはともにフレーム(助骨)の上部に備え付けられていました。

9. 船体内部の床となるシーリングプランキング (Ceiling Planking) はフロアティンバー(一番下部のフレーム)の最端部まで設置されており、その一番外部のシーリングプランクの側部はフレームとフレームの間の隙間を埋めるフィラープランク (Filler Planks) を設置するための溝が彫られていた。

サン・ホアン号のマストステップ周辺の復元イラスト。フィラープランクは「M」になります。 (Image from: Grenier et. al.)

船体を内部から見て、その船底部の床板となるシーリングプランキングはちょうど一番下部のフレーム(肋骨)であるフロアティンバーの最端部まで敷き詰められていました。またその高さのフレームとフレームの間には小石や小さな積み荷が間に落ちて紛失したり、船の排水ポンプを詰まらせないように蓋となるフィラープランクとよばれる小さな板がはめ込まれており、一番外部(上部)のシーリングプランクにはこのフィラープランクをはめ込むための溝が彫られていました。

10. イベリア船でシュラウド(横静索)を留めるデッドアイ(三つ目滑車)の下方部(ランヤードの下部のデッドアイ)のものは金属のストラップで巻かれており、ストラップは金属のチェーンとボルトで船体に留められていた。

サン・ホアン号のシュラウドの位置(左)と、デッドウッド(ハートウッド)とランヤード(右)。右の図で下方のデッドウッド(ハートウッド)に金属製のストラップとチェーンが付いています。 (Original figures from: Grenier et. al.)

帆船のマストを横から支えるロープをシュラウド(横静索)とよび、その下方部はシュラウドの長さを調節(締め直し)ができるようにランヤードというロープが備え付けられていました。このランヤードはデッドアイという(またはハートウッドと呼ばれる穴の開いた)木のブロックを通っていたのですが、この対になってる木製のブロックの下部を船体に留めていたのが金属のストラップとチェーンでした。イベリア船にはこの長細いチェーンが2~3個つながっており、その下部で金属ボルトにより船体に留めていました。

11. 船体後部はこれまでの船と違ってトランザム(船尾梁、または船尾肋骨)と呼ばれるフラットパネル構造になっていた。

サン・ホアン号のトランザムのフラグメント復元イラスト図。 (Image from: Grenier et. al.)

これまでの中世ヨーロッパの地中海船や北欧船の船尾は円い形をしていましたが16世紀にはいると船の船尾に平らな板が張り付けられたような構造が現れました。この船尾上部に造られたパネルのおかげで船の後方部の甲板の面積を拡張することが出来ました。このフラットパネルを「トランザム」(船尾梁)と呼んでいます。

  

  

まとめ

ここでは大航海時代にその原動力となった地中海船と北欧船を掛け合わせて産まれた新型船「ナウ船」に出現した11の特徴についてみてきました。これらの多くの特徴は実際に水中沈没船遺跡から見つかるものです。しかしながらこれらは一気に短期間で発明されたものではなく15世紀後半から16世紀前半に何十年もかけて徐々に生み出されたものです。さらにこれらの特徴が実際の沈没船遺跡のから見つかるかはその遺跡の保存状態に左右されます。なので「これら11全ての特徴が無ければ大航海時代のイベリア船ではない。」というのではなく、「これら11の特徴から3~4項目が沈没船遺跡から見つかれば大航海時代のイベリア船、つまり15世紀~17世紀前半のポルトガル船とスペイン船のナウ船あった可能性が高い」というように覚えておいてください。

   

   

いかがでしたか?人類史上はじめて別々の大陸で培われてきた様々な文化が「一繋ぎ」になった時代、それを私たちは「大航海時代」と呼びます。

最初はポルトガルによる「キリスト教勢力地域の拡張と復権」、そして「新たな貿易航路の開拓」が目的でした。そしてその過程において、南の海(地中海)と北の海(北海)が交わる「イベリア半島」に位置したポルトガルとスペインで、新たなハイブリット船が誕生したのは偶然ではありません。

そしてポルトガルと、1492年に新たに大航海時代に乗り出したスペインによってそれまでの世界地図は大きく書き換えられることとなりました。その後、16世紀に入るとイギリス・オランダ・フランスなどのヨーロッパ列強諸国も「ナウ船」の造船技術を学び、ポルトガルとスペインを追うように大航海時代に乗り出していったのです。

重要なのは「地中海の船」だけ、または「北欧の船」だけではこの二つを掛け合わせた大航海時代の船である「ナウ船」の誕生はありませんでした。古代世界から脈々と続いてきた人類史上最も重要な発明品でもある「船」の造船技術の粋によって大航海時代はもたらされたのです。これにより船は世界中を繋ぐ者となりました。この後も現在に至るまで様々な歴史が船によってもたらされ人類の歴史が築かれていくことになったのです。

   

    

おわりに

「船舶考古学」、つまり「船の歴史」ということで、これまでは西洋の船に狙いを絞り「古代文明の船」から近世の始まりの「大航海時代の船」までの成り立ちを紹介してきました。ここで皆さんに紹介できたのは船舶考古学のほんの一部でしかありません。今も地球のいたるところで様々な時代の沈没船が毎週のように発見されており、私の同僚の船舶考古学者の発掘研究により、より詳しく正確な「船の歴史」がわかってきています。

またもちろん「大航海時代」が西洋船の歴史の終着点ではありません。これから海賊たちの入り乱れた大航海時代後期や西洋列強諸国による植民地時代をへて、さらに蒸気機関の誕生と二度の世界大戦へと、より複雑に国際化した「世界規模で乱世の時代」へと突入していきます。そしていつの時代も重要な役割を果たしたのが、それぞれの時代の技術の粋を結晶した「船」と名付けられた機械でした。

まだまだ船の歴史については書き足りないですし、この後にも「海賊船」や「ヨーロッパ列強諸国それぞれの国独自の造船技術」、「海戦戦術の発達」、「帆船のさらなる進化」、そして「蒸気船の誕生」などと面白過ぎる内容が満載です。

しかしながら「大航海時代の夜明け」までを一区切りとして、「船の考古学」のコーナーを2・3年ほど一休みさせていただきます。

なぜなら「南蛮屏風に描かれた黒船の秘密」や「ポルトガル船のデザインの神髄」など詳しく書きたい面白いことが山ほどあるからです。でも、すぐ「船の考古学」のコーナーも再開しますし、その内容も随時アップデートしていきます。なので今後ともよろしくお願いします。

とりあえず、ここまで皆さんと約5千600年分の造船の歴史を一緒に見てきました。お疲れ様でした。少しでも皆さんにとって私たちの知っている「船」がどのように人類の歴史と共に育まれ、洗練されてきたのかを楽しんでいただけたのならこの上ない喜びです。

これまで見てきた「船の進化の歴史」を明らかにしてきたのが「船舶考古学」という学問です。国連の教育機関であるUNESCOによると少なくとも世界中に300万隻の歴史的な船舶(100年以上前に沈んでる船)の沈没船が眠っているとのことです。

私たち水中考古学者が1960年代からこれまでに発掘研究出来た船は多く見積もっても1,000隻以下でしょう。つまり229万9千隻以上の沈没船が手つかずのまま世界のどこかで眠っています。しかし最近の探査やソナー技術、そして漁業やスクーバダイビングの発展によって、毎週のように新しい歴史的に重要な沈没船が見つかっているのです。なのに沈没船の発掘研究を出来る水中考古学者の数が圧倒的に足りていません。

つまり何が言いたいかというと、私は皆さんがこの「水中考古学」、そして「造船史研究(船舶考古学)」の世界に飛び込んできてくれるのを待っています。

私はあと少なくとも30年は現役で水中考古学研究を続けていきます。
皆さんを世界のどこかの沈没船発掘現場でお待ちしています!

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<参考文献>

HOCKER, F. M., & WARD, C. A. (2004). The philosophy of shipbuilding: conceptual approaches to the study of wooden ships. College Station, Texas A & M University Press.

GRENIER, R., STEVENS, W., & BERNIER, M.-A. (2007). The underwater archaeology of Red Bay. Basque shipbuilding and whaling in the 16th century : Volume 1-5. Ottawa, Parks Canada.

ROSLOFF, J., & ARNOLD, J. B. (1984). The keel of the San Esteban (1554): continued analysis. International Journal of Nautical Archaeology. 13, 287-296.

OERTLING, T. J. (1989). The Molasses Reef wreck hull analysis: Final report. International Journal of Nautical Archaeology. 18, 229-243.

   

   

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