
後期青銅器時代(紀元前1550年頃~紀元前1200年頃)までに古代オリエント文明に属する地中海沿岸地域にはウガリット(Ugarit)やビブロス(Byblos)などの都市国家が栄え、エジプト、ヒッタイト帝国(現在のトルコ地域)、そしてエーゲ海の国々との海上貿易が盛んに行なわれていました。
この現在のシリア、イスラエル、レバノンあたりを「フェニキア」、そこに住んでいた人々をフェニキア人と呼んでいました。東地中海で紀元前1550年頃から紀元前1200年頃まで繁栄したフェニキアは1200年頃から紀元前900年頃にかけて徐々に衰退していき、その後フェニキア人は西地中海の北アフリカ沿岸や南イベリア半島沿岸に移動し、そこで新たに都市国家を築き復興していきました。ここでは紀元前1200年頃以前のフェニキア人が東地中海で繁栄したころの船についてみていきます。
ビブロスの粘土模型(紀元前約1500年頃)
フェニキアの海洋都市のウガリットから発見された粘土板には「王によって海洋貿易は統制され、王は150隻もの船を保有していた。」と書かれています。
ビブロスで発見された土器の中には船を模った置物が発掘されています。

これらフェニキア初期の海洋貿易を紐解く最大のヒントは古代エジプトの記述の中に出てきます。フェニキアが東地中海で繁栄した初期に海洋都市国家があったウガリット(Ugarit)、ビブロス(Byblos)、シドン(Sidon)、ティルス(Tyrus)のあった地域をサイロ・カナン地方と呼びます。
ネバムン(Nebamun)の墓の壁画(紀元前1400年頃、エジプト)

紀元前1400年頃の古代エジプトの医者であったネバムン(Nebamun)の墓の壁画にはサイロ・カナン地方からきた貿易船が描かれています。

この貿易船は帆が一つで、その頭頂部が大きく描かれているのがわかります。これはおそらく帆の上にクロウズ・ネスト(檣頭、見張り台)と呼ばれる足場が設置されていることを示しています。帆は横長でブーム(帆の下部に取り付けられた横棒)がリフトと呼ばれるロープでマスト上部から支えられています。デッキの周りには柵が張り巡らせて人や積荷が落ちないようにしています。このデッキ上に囲むように立てられた柵はウェザー・フェンシング (Weather fencing) と呼ばれています。大きな舵が船尾近くの横に備え付けられているのがわかります。この船の後方の横に取り付けられた舵はクオーター・ラダー(Quarter rudder) と呼ばれています。
ケナムン (Kenamun) の墓のレリーフ画 (紀元前1350年頃)

紀元前1350年頃の古代エジプトの有力者(テーベの市長で穀物類管理の最高責任者)であったケナムン(Kenamun)の墓で発見されたレリーフ画には、サイロ・カナン地方の都市国家の貿易船がエジプトの港に着いた時の様子が描かれています。ウガリットで発見された粘土板や古代エジプトのレリーフ画の記述によると、これらサイロ・カナン地方からの船はエジプト、ヒッタイト帝国、エーゲ海の各都市を周りながら貿易をしていました。主な貿易品は穀物、オリーブオイル、ワイン、羊毛や亜麻の織物、材木、馬や牛、銅、錫、青銅などの金属、ガラス、土器、鉄器、香料、象牙など多種多様なものでした。

サイロ・カナン地方の貿易船を見てみましょう。船には脚が1本のマストが一つ立っています。このマストの最上部に人がいるのが見えます。これは帆の上にクロウズ・ネスト(檣頭、見張り台)が設置されていることを示しています。デッキにはウェザー・フェンシング (Weather fencing) が張られています。また船首と船尾は垂直に突出した形をしています。ホッギング・トラスやトラス・ガードルは見られません。
しかし、これら後期青銅器時代の東地中海で繁栄したサイロ・カナン地方の海洋都市国家は紀元前1200年頃突然の終焉を迎えます。その後フェニキア人は地中海の西側に移動し新たな都市を築いていきます。
「海の民」による侵略(紀元前1170年頃)

紀元前1200年頃、ヨーロッパ大陸の民族(インド・ヨーロッパ語族)によるミケーネ文明やヒッタイト帝国への侵略がありました。後のスパルタ人とコリントス人の祖先となったドリス人、トルコ北西部へ侵攻したフリギア人です。彼らの一部は更に南部に進行しそしてヒッタイト帝国やサイロ・カナン地方の都市国家を滅ぼし、「海の民」と呼ばれました。(海の民は実際にどこから来たのかは定かではなく現在でも様々な説があります。)
彼らは海洋都市国家を侵略しながら南下を進め、エジプトにも侵攻してきました。ラムセス三世が率いるエジプト軍はデルタの戦いで勝利し、海の民の侵略を止めることに成功しました。

メディネト・ハブ (Medinet Habu) にあるラムセス3世葬祭殿には、彼の功績を称えるデルタの戦いのレリーフ画が残されています。ここに描かれている船は古代エジプトと「海の民」の海戦用の船でサイロ・カナン地方のものではありませんが、少し覗いてみましょう。
古代エジプト軍の船

エジプト軍の船は船首に獅子の頭の飾りがみられます。また全ての船にオールが備え付けられ、このオールを漕いでいる漕ぎ手は壁板(胸墻:きょうしょう)で守られているのも見てとれます。またブーム(帆の下部に取り付けられた横棒)が無くなっており、代わりにブレイル・ライン(絞り網)と呼ばれるブレイルド・セイル専用(Brailed Sail)のロープが現れています。この時代の船からブレイル・セイルが使用され始めたと考えられます。またクロウズ・ネストから攻撃している兵隊も見られます。使用している武器も弓矢、スリング(投石器)、長槍、さらに敵船の操舵系を破壊するための鉤縄(Grapping Hook)も見られます。
海の民の船

海の民の船はその船首と船尾が垂直に突出しているのがわかります。またその先には水鳥の頭の形をした飾り付けがしてあります。こちらの船もブームがなく、ブレイル・ラインが描かれているところからブレイルド・セイルを使用していると考えられます。またクロウズ・ネストも描かれています。この海の民の描写で興味深いのは、海の民の武器が剣と槍、そして盾と、通常の陸上での戦闘に使われる武器をのみを使用している点です。海上の戦闘では不利な装備をしているので、この描写が正確なら、彼らは陸上の戦闘を得意とした民族だったと推察されます。
まとめ
いかがでしたか。紀元前1500年頃から東地中海に栄えたサイロ・カナン地方のフェニキアの海洋都市国家は「海の民」の侵略により紀元前1200年頃から衰退していきました。それからフェニキア人は徐々に地中海の西側に移動して再び海洋民族として復興していきます。フェニキア初期のサイロ・カナン地方の都市国家の貿易の様子は、古代エジプトの記述や描写の中で見てとれます。近年、これらの都市国家で使用されたと思われる沈没船もいくつか発見されはじめています。水中遺跡の研究が進み、失われた歴史の謎が解明される日は近いでしょう。
次は古代エーゲ海の船の歴史を見ていきましょう。
<古代エーゲ海の船とテーラ島のフレスコ画>
<参考文献>
BASS, G. F. (1974). A history of seafaring based on underwater archaeology. London, Book Club Associates.
WACHSMANN, S. (2009). Seagoing ships & seamanship in the Bronze Age Levant. College Station, Texas A & M University Press